蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

小説 松葉の流れる町

松葉の流れる町(27)

浅草寺でほおずき市が開かれる頃に、森正太郎は再び金山の自宅を訪ねることにしていた。それを知って壬生は、 「私も一緒に行かせてください。『笹しげ』の羊羹を用意します。雑誌で金山さんがその羊羹のことを書いているのを読んだことがあるのです」と同行…

松葉の流れる町(26)

達彦が戻った翌日につぐみはみどりの手紙を受け取る。それには6月24日の墓参りの事が書かれていた。高揚を抑えきれず今日まで書くことができませんでした。しかし、どうしても書きたかったのです、と最後の書かれた言葉が印象的で、彼女の心の動きが手に取る…

松葉の流れる町(25)

それから数日後、達彦はカイロ大使館でつぐみの送った郵便物を受け取る。 「大田原君、郵便を預かっている」 カイロに着いた翌日、出勤した達彦に上野耕平がそう言って近づいてくる。上野は50代前半位の二等書記官だった。 達彦はカイロに異動した早々に大使…

松葉の流れる町(24)

特別対策室の件は、達彦が外交官試験にパスした大学4年の時にそれとなく示されていた。達彦が、モスクワ大使館での研修が希望ですと言うと、その理由と同時に、暗にそうした部署への着任を尋ねられたのである。 『父親は日教組の活動家であり、叔父は牧師で…

松葉の流れる町(23)

「達彦さん、いつまでいられるの」 通行する人の中には足を止めて店先の商品を眺める人ばかりではなく、買い求めた物をその場でほお張る人もいた。そうした人たちの大きな塊が、流れの迂回を余儀なくさせる。その日の仲見世通りには、地方からの団体客らしい…

松葉の流れる町(22)

みどりが送ってくれた泰山木の写真の中に古いものが混じっていた。「アルバムを見ていたらこんな写真がありましたので、焼き増しして同封します」と書いてある。泰山木の前に幼い二人が並んで立つ姿で、花がついてないところを見ると季節は少し違うようだ。…

松葉の流れる町(21)

「壬生さん、そう言えば壬生さんも歌手を諦めた口ですね。私も学生の頃はブルーグラスのバンドをやっていて、プロとしてやりたかったのですが、下手だからそれは叶いませんでした。だから演歌にそれほど詳しい訳ではないのです。しかも若い頃は日本のどろど…

松葉の流れる町(20)

翌日つぐみの予定はなかった。スケジュールの確認と調整のため会社に出た壬生を正太郎が待っていた。 「壬生さん、ちょっと」 珍しく机に向かう壬生に正太郎が声をかける。壬生は正太郎を追って部屋を出た。事務所のあるビルの地下に喫茶店がある。 「一条は…

松葉の流れる町(19)

その帰りのタクシーの中で、つぐみは会場で受け取ったファンレターに眼を通した。つぐみが貰うファンレターはそう多くはない。浅草は故郷の宇都宮と同じで、彼女がキャンペーンを開くと必ず熱心なファンが来てくれる場所だった。人情に厚い下町につぐみの演…

松葉の流れる町(18)

それから暫く経ってキャンペーンが終わりになろうとしていた頃、壬生は少し前から気になっていたことを口にした。 「あの三人は何者だろう」 彼らがそこにいるのは少し前から気付いていた。しかし彼らはそこで誰かを待っているだけだろうと大して気にしては…

松葉の流れる町(17)

輪の外に巍然と立つ男は詩人の金山佐知夫である。その姿は人込みに馴染まない。一人異質である。彼は妻の貞子との約束で出かけた浅草で、浅草寺に向かう途中に見かけた演歌を歌う若い歌手の幟の文字に、あることを思い出していた。それは以前に、出版記念パ…

松葉の流れる町(16)

浅草での新曲キャンペーンは雲井五郎のラジオ番組の2日後のことだった。5月の街は軽装の人が目立ち、華やいだ雰囲気にある。爽やかな風が頬を過ぎる。それにつられてうきうきと体を動かすと、汗ばんで来て上着を脱ぎ捨てたくなる。太陽の光は日増しに強くな…

松葉の流れる町(15)

3章 つぐみが出すあてのない手紙を書いていたこの頃に、ラジオ番組から声がかかる。雲井吾郎がパーソナリティを務める深夜の番組で、彼は「モリプロ・スカウトツアー」の司会をしていたこともあり、以前にも別の番組で呼んでくれたことがあった。 「モリプ…

松葉の流れる町(14)

その年の明けた正月、雅子は達彦に宛てた年賀状が戻って来たことに驚き平静を失った。受験勉強が手につかなくなり一人悩んだが、結局頼るのは牧師しかなく、意を決し次のような葉書を書いた。 前略 新しい年を健やかにお迎えのことと思います。年賀状を差し…

松葉の流れる町(13)

その夜、アパートに着いてからも、はにかんだような少女の顔が浮かんで来てなかなか寝つけなかった。昨年の夏、純一と二人で山野を歩いた後に偶然出会った少女と、その顔は重ならない。無心に歌う少女は、後で中学生だと知ったが、足を止めて盗み聴いても、…

松葉の流れる町(12)

次の駅では多くの乗客があった。その中の隣に席を占めた四人の若者達はギターケースを網棚に載せるのに大騒ぎである。網棚に手が届かず四苦八苦していた小柄なおかっぱ髪の男が、代わりに上げると言う大柄なチューリップ帽の男の手を邪険に払って、自分で載…

松葉の流れる町(11)

列車は空いていた。8月もまだ10日ばかり残しており、帰省者の帰京はもう少し後になるのだろう。 窓越しに見える山間の僅かな耕地は低地を蛇行し、濃い緑を揺らして遠くの町並みに続いている。その町の奥の霞んだ山々の上には真っ白な雲が浮いている。少し…

松葉の流れる町(10)

青葉の発散する臭気がまだ残っているのだろう、独特の噎せるような青臭さが鼻につく。それは昼の熱気を感じさせ、息苦しさを感じさせた。少女の一途な思いをどう受け止めればよいのだろう。達彦は雅子の心にどう対すれば良いのか思いあぐねていた。 熱い外気…

松葉の流れる町(9)

「最近、山が好きなのか、都会を逃げたいのか分らなくなってきた。何故僕はここにいるのだろう」 達彦はポツンと言った。二人は療養所の前に整備された見晴らしの良い場所まで歩いていた。そこは昨年、雅子が良く歌っていた所で達彦と初めて会った場所だった…

松葉の流れる町(8)

2章 1972年の夏、大学2年になった大田原達彦は目的もなく高原の叔父の教会にやって来て、ぶらぶらと時を過ごしていた。彼は大学のワンダーフォーゲル部に所属したが、友人の死を契機に部活動への意欲をなくしていた。叔父の国男と約束のあった雅子がやって…

松葉の流れる町(7)

この頃つぐみは達彦への手紙を書いては破り、また書いては破ることを繰り返した。達彦は1年前の75年4月に外交官として採用され、モスクワでの1ヶ月研修終了後、そのままその地の大使館に配属されていた。その1年間、つぐみは何通もの手紙を書いた。達彦も…

松葉の流れる町(6)

つぐみはみどりの手紙を何度も読み直した。決して有名な歌手でも、一人前の歌手でもないことは自分が一番良く知っている。そんな自分をそんな風に見てくれ、お世辞でもそんな風に言ってくれたことが嬉しかった。この頃一人でいると、明日に洋々とした輝きを…

松葉の流れる町(5)

温泉神社から戻って数日がたった頃にみどりからの手紙が届いた。みどりとつぐみは宇都宮で小学校から高校までずっと同じ学校に通った幼馴染で、つぐみがデビューして都内の高校に移ってからも互いの近況を知らせあう程の仲良しだった。二人ともこの3月に高…

松葉の流れる町(4)

その奉納の舞が終わるまでがつぐみの「別れの一本杉」を練習する時間だった。歌詞が不明のまま「歌ってみましょうか」と答えたのは「演歌だろうがフォークだろうが、歌謡曲、学園ポップス、何でもOKだよ。なんでも得意だから任せてくれ」と常日頃から言う壬…

松葉の流れる町(3)

「『別れの一本杉』を歌ってくれませんか。多分、皆喜ぶと思います。その曲とこの場所とは縁があるんです」 つぐみが1回目のステージを終え、控えのテントに戻るのを入口で宮司が待っていた。 「えっ、『別れの一本杉』ですか。曲は決まっていますから、難…

松葉の流れる町(2)

翌日、つぐみは栃木県北部の小さな町の神社で、その春祭りの舞台に立った。毎年4月の例大祭がその地域最大の行事で、山車が町中を巡り、主会場の境内には多くの出店が並び、他にも流鏑馬や演芸会等が催される。そして最上部の神楽殿では太々神楽と獅子舞が…

松葉の流れる町(1)

1章 窓の外で湿気を失った木の梁が収縮する時の乾いた音がした。光を求める昆虫が窓ガラスに当る音だった。闇の世界から見れば、僅かな白い光でも類まれなる危険の予知能力を忘れさせるほど魅力的に写るのだろう。二元進化の一方の極にいるといわれる昆虫の…