蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(16)

 浅草での新曲キャンペーンは雲井五郎のラジオ番組の2日後のことだった。5月の街は軽装の人が目立ち、華やいだ雰囲気にある。爽やかな風が頬を過ぎる。それにつられてうきうきと体を動かすと、汗ばんで来て上着を脱ぎ捨てたくなる。太陽の光は日増しに強くなっていた。

 都内でのキャンペーンの時には会社のスタッフが応援に来てくれ、事前にテーブルや幟、販売用のレコード等を運んでくれる。地方の時は全て二人で準備した。什器類はその都度借用し、ない時は別のもので代用した。勿論、今日は舞台用のビールケースは用意されている。
「これがいいんだよ」と、壬生は常にそのケースを忘れることを許さなかった。

 つぐみと壬生が着いた時、既に準備は終えていた。浅草のこのマルミヤレコードは演歌中心の店で、浅草公会堂の近く、右手に伝法院や浅草寺の建物が見える所にあった。前方に進むと浅草の中心、六区の広い通りに出る。その六区の通りを抜けると国際通りである。浅草国際劇場はその通りを渡って右に進むと直ぐ左側にあった。いつものようにつぐみが真っ先に店主に挨拶に行くと、「つぐみちゃん、来年は浅草国際でワンマンショーだ」と、店主もまた、いつもの通りの言葉を返してくる。浅草国際劇場はつぐみにとって夢の舞台だった。 
 西の宝塚、東のSKD(松竹歌劇団)と言われたそのSKDの本拠地が浅草国際劇場である。大東京の浅草名所と謳われ、「東洋一の五千人劇場」といわれ、東京大空襲時の被弾後も再興されたが、1937年に松竹少女歌劇によって杮落としされた建物は老朽化が進み、この6年後の1982年に取り壊されることになる。しかし1976年のこの時、つぐみの夢はこの劇場でのワンマンショーだった。

 日曜日のこの日は多くの人出があり、店頭には既に何人かがつぐみの登場を待っていた。それらしい告知をしたわけではない。「5月23日(日)『悲しみの町』の一条つぐみ来る」の手書きの張り紙があるだけだったが、熱心なファンがそれを見逃す筈はなかった。

 つぐみはどちらかというと玄人受けする歌手といわれたが、それは高1のデビューにしては小柄で幼く見える時があり、同じ年代より少し上の人たちに好かれたことに、その理由の一つがあったのかもしれない。それを雲井は「つぐみちゃんは父性を擽る歌手だ。そしてそんな風に感じる僕は、父親の年代になったのかもしれない」と、しみじみ語ったことがあったが、確かにその言葉はつぐみを端的に言い表していた。立ち止まる人には年配者、他の若い歌手に較べれば「お父さん」と呼ばれる人が目立っていた。

 丸宮の妻に背中に気合を入れられてつぐみが店頭に出ると、待っている人たちの間から拍手が起こった。この日つぐみは温泉神社と同じ瑠璃の着物だった。
「皆さん、こんにちは。一条つぐみです。本日は浅草においで頂き有難うございます。3月に新曲を出しました。私にとって5枚目のシングルになります。それではその『悲しみの町』を聴いて下さい。その後でレコード買って下さい」と、ビールケースの上で少しおどけて舌を出し、首を竦めた。再び起こる拍手の間々に、「買う、買う」とか「もう買ったよ」との声が聞こえた。テーブルの前でレコードを手にしていた女性は、慌ててテーブルに戻し拍手する。つぐみが歌い始めると、通行する人の中にも立ち止まる人が増えてきて、人の輪は大きくなる。そして歌い終えると、テーブルの後ろに立ってファンの求めに応じた。レコードを買う人、握手を求める人、プレゼントを渡してくれる人などがいた。ファンレターを差し出す長髪の男性の姿もあった。そして再びマイクを握ると、人の輪は更に膨れて行った。

 その輪の外側に一組の年配の夫婦が立ち止まった。妻は夫に従って足を止めた。
「あら、可愛いい方。一枚買って来ましょうか」と妻は夫を見る。夫の様子でこの若い歌手が気になるのは直ぐに分った。
「いや、今日はいい」男は憮然として言う。
「今日はいいって、あなた、今日しかありませんよ」

 再び妻は夫を見る。夫の言葉は分っていた。思っていることをそのまま口にはしない。反対のことを言う。天邪鬼である。偏屈なのである。それを知る妻は夫に構わずその場を離れ、テーブルの後ろで通行人に手を振るつぐみの前に立った。そして「こんにちは」と笑顔を見せてから、「デビューしてどれくらい経たれるのですか」と、レコードとつぐみを見比べながら訊いた。
「はい。3年目なります」つぐみもにこやかに答える。
「レコードは何枚出されているのですか」
「新曲が5枚目になります」
「お上手だから全部聴いてみたくなりました。これまでのもありますか」
「はい」と言うつぐみに代わって、隣のスタッフが箱の中からこれまでに発売された『さよならの町』『金盞花』『蓮華の花咲く頃』『「雁来紅』の4枚を取り出し、彼女の前に並べた。それを見ながら彼女は続ける。
「あなた、もしかして森さんのところの方かしら」
「はい、モリプロですけど…」
「やはり、そうでしたか」と微笑んだ。モリプロと聞いて、妻は多分そうだろうと思っていたことを確信した。夫がこの若い歌手を気にする理由が分った。