蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代5、望郷


 前編で森昌子が「港のまつり」の前に故郷の話をしたことから、このタイトルは「望郷」とした。忘れた振りをする故郷は実は忘れられてはいない。戻れないが故に忘れた振りをするのである。「帰りたいでしょ港のまつりに」の問いかけに、男は戻れないが故に、逆に募り来る望郷を感じてしまう。望郷は鮭の回帰本能にも似て、消し去れない記憶なのである。理性が制御できない本能なのである。


 少し話が逸れるが、まず望郷から思い出される映画を取り上げる。その一つ目が異郷の地でパリを想うジャン・ギャバンの傑作「望郷」である。当該ウェブサイトでその概要をご覧頂きたい。
映画「望郷」(1937年)解説
http://www.tk-telefilm.co.jp/pepe.html
 次に望郷を連想させる山田洋次の幾つかの作品が挙げる。それぞれ作品名、公開年、設定場所、倍賞千恵子の役名である。

  • 「家族」(1970年)長崎県の島から北海道の開拓村へ(風見民子)
  • 「故郷」(1972年)瀬戸内海の小島(石崎民子)
  • 「同胞」(1975年)岩手県の過疎の村(秀子)
  • 「遥かなる山の呼び声」(1980年)北海道中標津町(風見民子)

 この上から3つの作品、「同胞」までを私は「故郷三部作」或いは「望郷三部作」と呼んでいたのだが、ネット上を探してもこうした呼び名はなく、代りに「民子三部作」の呼称があった。倍賞千恵子の役名が同じ民子であることからそう呼ばれるらしい。したがって「民子三部作」には「同胞」ではなく、「遥かなる山の呼び声」が入る。

 大して拘る訳ではないが、私には最初の3作の方がシックリくる。「遙かなる山の呼び声」は映画「シェーン」の主題曲名であり、映画もそれにヒントを得て作られたといわれる。また、山田洋次には他に、圧倒的な黄色いハンカチを掲げて観客の度肝を抜いた「幸せの黄色いハンカチ」があるが、これもドーンの「幸せの黄色いリボン」を原作としている。番外ではあるが、良い機会なので久し振りにこの曲を聴いてみる。
ドーン「幸せの黄色いリボン」(1973年)
http://www.youtube.com/watch?v=45WsiKKWGP0


 望郷に関してはこれまで「石川啄木」、「入船亭扇橋の俳句」、「港のまつり」、「女の海峡」等の中で取り上げてきた。故郷を追われた啄木のその山を詠んだ歌や、セピアに変色した朧の中の寒椿に故郷への思いを託した扇橋の俳句等、それぞれにそれぞれの望郷が表れている。

 「港のまつり」には、男の望郷を知る待つ女の思いやりがある。その男の思いを知ってるからこそ、彼女は歌う前に故郷の話をしたのだろう。そうでなければ最後の言葉の真意が暈ける。この言葉は、何処かにいる夫となる男に向けられたものだろう。そしてそれは「港のまつり」の女と同じく、母性が言わせたものだろう。この男のように、戻りたくても戻れない事情がある人の望郷は、無念というよりも遣る瀬無いと言うべきかもしれない。やり処のない怒りを、自分の中に納めておかなければならない切なさがあるからである。この如何ともしがたい感情をそのまま歌った歌がある。山崎ハコの「望郷」である。彼女は暗い歌を得意としているが、その遣る瀬無さは強烈である。そして懐かしさと遣る瀬無さが混在する中でのその最後の言葉は衝撃だった。
山崎ハコ「望郷」(1975年)
http://www.youtube.com/watch?v=gvpNFLtzxR4


 そして最後に再び「おんなの海峡」を聴く。これもまたmmhigurashiさんのものである。東京を捨てた女が汽車を船に乗り換える時、無意識に思い出してしまう景色があるとするなら、それは故郷の風景だろう。そしてその風景は祭りの時のものかもしれない。その意味で見るなら、この「おんなの海峡」の映像は素晴らしい。女の心象が絵画のように見えてくる。しかしこの女は故郷には戻らないのだろう。戻らないからこそ募る望郷の想いが、聴く人の心を打つのだろう。森昌子の歌声はこの曲の本質を衝いて響き、心の襞一つ一つを侵していく。また、華美でもなく卑しくもない、その髪型も含めた装いや表情をも含めた立ち居振る舞いは主人公を髣髴とさせ、歌唱を引き立てている。そこにあるのは汚すべかざる清冽なる世界である。
森昌子「おんなの海峡」(1972年)