蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

森昌子私論

補足1 無題

「森昌子私論」の一部を少しずつ書き直しています。何度直しても如何ともしがたいもので、途中で嫌になって来るのですが、まあ諦めも肝心だろう。やむをえまい。と言うことで、7-1「さようなら」森昌子(1)より、 15周年記念コンサートでの絶品は「寒椿」で…

3-2森昌子 天才少女走る

しばしの休息は必要だったろう。天才少女は再び走り出す。あの青年の目指した荒野に向かってである。その荒野の彼方で秋津が彼女を待っている。そこは国のまほろば、秋津の島である。 「天才少女の旅立ち」に続くものであるが補足の意味も含めて一部重複する…

4-5森昌子と旅立つ彼(ひと)(2)

佐々木勉が二人いたとはウィキペデアによるもので、その記載部分を以下に引用する。 佐々木 勉(ささき べん、本名:佐々木勤(ささき つとむ)、1938年12月26日 - 1985年3月11日)は、昭和期の作詞家、作曲家、歌手。東京都出身。妻は女優の西尾美恵子。196…

4-4森昌子と旅立つ彼(ひと)

「愛する人に歌わせないで」(作詞、作曲:森田公一)、「旅立つ彼」(作詞、作曲:佐々木勉)、「わかって下さい」(作詞、作曲:因幡 晃)の3曲を選び、「森昌子 カバーフォーク」とする予定で調べ始めたのだが、「旅立つ彼」で意外とややこしいことになっ…

2-5森昌子と潮来花嫁さん

「潮来花嫁さん」は1960年(昭和35年)4月に発売された花村菊江のシングルで、作詞は柴田よしかず、 作曲は水野富士夫による。 1960年はあの安保の年である。阿久悠が「東京から若者がいなくなる」と嘆いたのは70年安保の時であり、高野悦子の自殺はその前年…

5-1森昌子 あの頃、1981年

「日曜日の朝、朝ごはんができるまで、お父様の自転車の後ろに乗って、お父様と一緒に声を合わせて歌うのが、何よりの楽しみだった森昌子ちゃん、こんなに大きくなりました」 第32回「紅白」で、赤組トリの森昌子を紹介する司会者黒柳徹子の言葉である。初め…

2-2 森昌子 天使たちの翔き

「いつか、本当の演歌が歌える歌手になりたいなあ」という「スター誕生」で流された少女の明日を夢みた言葉は、本当に当人が語った言葉なのだろうか。或いは、テレビ局側が作り上げた言葉なのだろうか。私は後者であろうと思っているのだが、いずれであるに…

2-1 森昌子 明日を夢みて

「スター誕生」で天才振りを発揮した森田昌子は森昌子として、1972年7月1日、阿久悠作詞、遠藤実作曲の「せんせい」でデビューすることになる。しかしデビューまでのプロセスは、詞を依頼された阿久悠、所属することになるホリプロの堀威夫、そして「スター…

4-3 大正ロマンと森昌子

1984頃 大正ロマンというと真っ先に思い浮かぶのが竹久夢二の絵であろう。倦怠と耽美の世界にいるあの女性の姿である。その絵にどこか懐かしさ感じるのは何故だろう。童謡の挿絵で見たからだろうか。大人の雑誌を盗み見た印象が強烈だったからだろうか。よく…

4-1 森昌子 自分を探して

1979年 「ビッグショー」エンディングに悲壮的な言葉で自信を見せた森昌子は、それから自分の歌について悩むことになる。それは才能ある者の悩みで、万人が持ち得る悩みではない。また、アメリカ西海岸に長期滞在したように、真剣に己の進退を考えた時期でも…

6-4解釈 赤とんぼ

前回と重複するが、「赤とんぼ」は1921年(大正10年)三木露風32歳の時に、「北海道函館のトラピスト修道院で、赤とんぼのいる窓越しの風景を見て作った」との本人の記述がある。無論、詩の情景は幼少期のものであるから故郷兵庫県竜野のものであろう。 この…

6-3歌詞 赤とんぼ

日本は古来、大倭豊秋津島または単に秋津島(秋津洲)と呼ばれた。豊かに穀物が実る島の意で大和を中心とする地域の美称、或は日本国の美称である。『古事記』では大倭豊秋津島、『日本書紀』では大日本豊秋津洲と記される。大は美称、倭は大和のことで『古…

6-2 童謡・抒情歌と森昌子

1986年 「赤とんぼ」と「ふるさと」 15周年記念コンサートでの選曲はオリジナルシングルのみで、童謡、抒情歌などは含まれていないが、ファイナルコンサートでは何曲か歌われ、その中に「赤とんぼ」と「ふるさと」がある。これは「森昌子大全集 DISC.6今甦る…

4-2 森昌子と船頭小唄

1977年 中山晋平は「船頭小唄」で晋平節を定着させたと言われている。晋平節の特徴はヨナ抜き5音階で、それはドレミの4番目と7番目の音、ファとシを抜いたドレミソラドの5つの音による音階のことである。ヨナ抜き5音階は伊沢修二の努力の結晶とも言えるもの…

2-3 森昌子の原点「南国土佐を後にして」

1974年頃 森昌子が生まれて初めて歌った歌が1歳7ヶ月の時のこの「南国土佐を後にして」で、3歳の頃には既にマスターしていたと言われている。この曲は武政英策の作詞作曲によるもので、1959年ペギー葉山の歌でヒットした。その数年前に二人の歌手がレコード…

1-2 少女森昌子の挑戦(2)

デビュー頃 森田昌子の選んだ曲は都はるみの「涙の連絡線」だった。いや、選んだのではなく叔母から渡された譜面が「涙の連絡線」だった。「涙の連絡線」は都はるみの11枚目のシングルで、1965年6月に発売されていた。都はるみはその前年3月にデビューし、同…

1-1 少女森昌子の挑戦(1)

1971年、街中には尾崎紀代彦の歌う「また逢う日まで」が流れ、少し小さな通りの若者が多くの住む辺りでは吉田拓郎の「青春の詩」を聞くことが多かった。 70年安保に対する反対運動は、特に学生の間で全共闘や新左翼諸派の運動として全国的に盛んであったが、…

7-4 「さようなら」と「みだれ髪」(2)

星野哲郎は「みだれ髪」推敲の頃「祈る女という言葉をなくさないで下さい」と書かれた美空ひばりからの手紙に、一度削ったその言葉を復活させたという。美空ひばりのこの頃を思うに、どうしても彼女はその言葉を身近に置いておきたかったのだろうと思われる…

7-3 「さようなら」と「みだれ髪」(1)

「さようなら」 歌手:森 昌子、作詞:阿久 悠、作曲:遠藤 実 さようならは こころを翔び立つ小鳩 傷ついた翼を けなげにもはばたかせ いつまでも 見送る人の目の中に… 言葉はたくさんあったのに とうとう一つになりました 風吹き花散るその中で あなたに …

2-4 美空ひばりの朗読

1976年3月3日に放送されたNET森昌子5周年特番「演歌に涙と青春を」の中で、美空ひばりが朗読した内容である。 母が黙っている時は 苦い飴玉くれたような 暗い足元照らしてくれるのも お母さん 躓きそうになった時 手を差し伸べてくれるのも お母さん そんな…

7-2 「さようなら」森昌子(2)

(1986年) ファイナルコンサートもまた素晴らしいステージであるが、断然の一曲は最後の「さようなら」であろう。「せんせい」「哀しみ本線日本海」「越冬つばめ」等、彼女を代表する曲も良いのだが、ここでは「さようなら」に尽きる。この曲で森昌子という歌…

7-1 「さようなら」森昌子(1)

「固いつぼみが大輪になる日をずっと待っていました。一つの恋によって女の花が開いた時、歌手森昌子との別れが待っていました。スターであるより、一人の平凡な娘としてあなたは今去っていく。どんな豪華な花嫁衣裳より美しい歌声と涙を残して…。15年間私た…

3-1 森昌子 天才少女の旅立ち

(1977年頃) 「恋の歌をいつか本当に歌える様になりたいと思います。涙を、夢を、幸せを、心の底から体中で歌えるようになりたいと思います。見ていて下さい」 これは1977年7月31日(収録は前月27日)に放送された「ビッグショー」での森昌子の言葉である…