蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

4-1 森昌子 自分を探して

1979年

 「ビッグショー」エンディングに悲壮的な言葉で自信を見せた森昌子は、それから自分の歌について悩むことになる。それは才能ある者の悩みで、万人が持ち得る悩みではない。また、アメリカ西海岸に長期滞在したように、真剣に己の進退を考えた時期でもある。1979年7月に全曲阿久悠の詩によるLPを出しているが、このタイトルが「昌子哀愁」であり、偶然なのかこの頃の彼女の気持ちを表わした言葉になっている。


 この頃はコンサートやテレビ等のライブで充実したカバー曲が多いのにひきかえ、オリジナル曲に目ぼしいものが少ない時期で、それは本来の自分に合う曲を見定める試行を繰り返したからかも知れない。A面曲をみると歌謡曲風、演歌風、フォーク風、民謡風と多彩であり、歌う期間も短い。「なみだの桟橋」は比較的長い期間歌い続けたが、この頃の彼女に合っていたのか疑問が残る。しかし演歌へのシフトは彼女を含め関係者にとっても必然のことであったろうし、いつか歌わねばならない曲であったことに間違いはない。演歌も含めたこれらの中からこれからの歌を探り、世間の反応を試したのかもしれない。別の言い方をすれば、自分自身を試し、また自分自身を探したともいえる。

 自分を探すことは歌真似で示した類稀なる才能との決別をも意味する。彼女の優れた資質のひとつに耳の良さがあるが、それは聴いた音をそのまま再現できることに繋がっている。他人の声が自分の意思に添う時はいい。腕の立つ猛獣使いであるのだから。だが、自分の歌の中に突如現れる他人の声はある種の恐怖だろう。それを隠す為だろうか、過度の感情表現に固執していると思える時がある。


 これは偶然なのか、それとも意図的なのか、相当に似ている曲を2曲挙げる。「ないしょ話」と「白いギター」である。それぞれ14歳と15歳の時のLPに収められている。「ないしょ話」はオリジナルを意識しているのだろう。本人の声が聞こえない。この頃の別の曲にある森昌子本人の声がこの歌では全く聞こえて来ないのである。彼女の耳の良さは、音程のみではなく音色や音質までも正確に記憶し、それを再現してしまうのだろう。ここに彼女の歌真似の本質があるように思えるのだが、その再現能力は群を抜いており、脅威であると言わざるをえない。「白いギター」は物まね番組で歌っており、真似てはいないと思うが、ここでもオリジナル歌手の声が出てきている。特に高音はチェリッシュえっちゃんに良く似ている。これは多分、無意識なのだろうが、この再現能力の高さが耳の良さを如実に示している。


 この頃時代は、高三トリオの一人でホリプロの後輩、山口百恵の傍らにあった。「時代と寝た女」とは言いえて妙で、時代は常に彼女の傍らにあったということだろう。しかしスター誕生での山口百恵の存在は薄い。可憐な笑顔を振りまいて「明らかに他の人達とは違い輝いて存在した」と言われた桜田淳子や、その天才振りの歌唱で会場を震撼させた森昌子とは違い、その薄幸のイメージだけがその印象に残った。阿久悠をして「青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌はあきらめた方がいいかもしれないね」とまで言わせている。その彼女はデビュー曲では躓いたものの2曲目の「青い果実」で危うい少女を演じて好奇の眼を向けられると、5枚目の「ひと夏の経験」でいわゆる「青い性」路線を確立し、好奇の眼を注目へと変えてしまう。そして1976年の 「横須賀ストーリー」でその地位を不動のものとする。それ以前の1974年に映画デビューがあり、また同年10月からのTBS「赤いシリーズ」で既に高い人気を集めていて、スターへの階段を登り始めていた。スターが待望されていた時代で、特にそれは映画界において顕著だったことを考えれば、山口百恵は時代に恵まれたとも言える。それは時代のなせる業で、時代は三人三様にそれぞれの恵みを与えたが、特に山口百恵にとって重要な意味を持っていた。そして、真ん中に立つのは一人に限られるとすれば、誰かが脇に回らなければならない。森昌子にとって試練の時であった。


 森昌子は「スター誕生」での曲が「涙の連絡線」であり、また「いつか本当の演歌が歌える歌手になりたいなあ」という紹介ナレーションから既に演歌歌手の卵であった。いつ演歌を歌うのかとの注目は、美空ひばりの「熱い演歌の灯火を昌子がきっと守るでしょう」との朗読を受けて、後継者としての期待に変わっていた。彼女が演歌を歌うのは時間の問題であり、問題はいつ歌うのかだけだった。阿久悠はデビューに際し、いたいけない13歳の少女に演歌を歌わせるのを躊躇している。「涙の連絡線」を歌ったのは13歳の素人の少女であるが、デビュー曲となればそれはプロ本人の歌となる。演歌では余りにも嘘臭く、もう少し成長してからの方が良いとの考えであった。この森田昌子の明日を夢見た言葉は、それが本人の意思か否かに関わりなく後々彼女にとって重い十字架になる。


 森昌子と演歌の結びつきは美空ひばりの言葉によって既定の事実となる。それは世間も含めて一致した認識で、それに反論する人がいるとは思えなかったが、一人だけその認識に異を唱える人物がいたのである。それが淡谷のり子だった。彼女は森昌子の5周年特番にゲストとして招かれた時に、高橋圭三の問いかけに「音楽学校に入って、歌の勉強をして欲しい」と答えている。音楽学校で学ぶのは声楽である。淡谷本人は音楽学校を首席で卒業し、10年にひとりのソプラノと称され、クラシック界での活躍を嘱望された逸材であったが、生活のために流行歌手への道を選んでいる。その淡谷が音楽学校での声楽の勉強を勧めている。「才能があるし、勉強することで深いものが解ってくる。今のままだったら歌のお手本で終わってしまう」と。

 その淡谷は流行歌手となったことで非難され、母校の卒業者名簿からの抹消という屈辱を受けていた。当時の流行歌手は、3円20銭を払って「遊芸稼ぎ人」の鑑札を受けた。それは納税義務のない八等技芸士であり、屋根のあるところでは歌えない角付け芸人と同じであった。クラシックを歌っていれば芸術家として世間の尊敬を受けたが、流行歌手は八等技芸士でその差を大きい。淡谷は一週間悩んでこの決断を下したという。「低い位置にある流行歌手は多くの大衆から支持されていました。高尚な芸術の世界に戻ってほんの一部の人たちから拍手を受けるよりも、大衆にとび込んで歌を通し、心と心を結び合い、歌の感動をより多くの人たちと分かち合おうと心に決めたのです」とその著書に書いている。

 彼女の生まれた青森の旧家は火事やその後の破産などで没落し、またその前に両親が離婚していたこともあり、東京での母、妹三人での暮らしは貧しかったという。彼女はヌードモデルまでして稼いだ学費での卒業だったが、卒業後の転進を決意している。恩師久保田稲子は、クラシック歌手への夢を教え子の淡谷に託していたといわれるが、淡谷が流行歌手になったことを詫びると、「いいのよ。あなたがいっしょうけんめい歌ってくださるから」と答え、「あなたは歌といっしょに死んでいくのね」と言ったという。淡谷はこの言葉を終生忘れず、この時、死ぬまで歌い続けることを自らに課したのだという。

 淡谷は演歌嫌いで有名であり、演歌を歌として認めないとまで言った人物である。その彼女が森昌子と演歌の関係を知らぬ筈はあるまいが「音楽学校で勉強したら」と勧めている。ここに淡谷の歌に対する信念を見る。勿論、森昌子の才能を認めたからで、歌手の先輩としての責任を果たそうとする言葉なのだろう。そしてこの言葉は、この時既に69の年齢にありながら、かつて自らに課した恩師の言葉を再認識する作業でもあったのかもしれない。死ぬまで歌い続けることは死ぬまでの勉強と同じなのであるから。


 この自分を探していた頃に結実した一曲の歌がある。「あの人の船行っちゃった」である。この曲は旅立ち前の1975年12月1日に発売された15枚目のシングルで、17歳の時のものであるが、それまでの学園ポッップス調とは異なり、その前作の「あなたを待って三年三月」(16歳)に続く軽い演歌調の曲である。                                            
 彼女はこの曲を比較的長い期間歌い続け、ライブでのLPの調べると次のようになる。①「5周年森昌子ショー初姿七変化」(1976年3月・17歳)②「青春の熱唱」(1976年11月・18歳)③「演歌に涙と青春を」(1977年3月・18歳)④「涙の熱唱」(1976年11月・19歳)等である。公演では必ず歌われていた曲である。無論曲数の問題もあり、この曲だけが歌われ続けたという意味ではない。

 そして、1979年1月に放送された20歳の時の松山市民会館での歌唱とシングル盤を聴き比べてみると、17歳の時の硬質だった声は柔らかに澄み、長い期間歌い続けたことで歌自体も充分に消化され、完全に彼女の曲になっていることが判る。彼女の歌声は絶え間なく溢れ来る湧水にも似た清らかさで響いてくる。彼女の歌には、高三トリオ解散コンサートで紹介された「四季の表情がある」と言われるが、それに倣えば、ここでのそれは「冬の雪の清らかさ」が相応しい。そのせいか、着物で歌うその姿からでさえ、演歌云々を超えた青春真っただ中の歌謡歌手として映る。


 森昌子の現在が後期であるとすれば、デビュー後の15年は前期である。私はこの前期を更に3つの時期に分けて考えている。仮に1期、2期、3期とすると、1期はデビューから「ビッグショー」までで、正確に言えば「高三トリオ解散コンサート」であろうが、「ビッグショー」での言葉に鮮烈な印象があり、この時までとしている。2期はこの「ビッグショー」から「哀しみ本線日本海」に出会う頃までで、そのシングル盤は1981年7月に発売されているが、その暮れの初めてトリとなった紅白歌合戦が相応しく、その時までと考える。そして最後がそこから1986年の引退までである。この3つの期間はそれぞれに特徴があり、1期目は天才少女の時代であり、2期目は表題の通り本来の自分を探した頃であり、そして3期目は開花した充実の時である。3期目は84年以降に特に顕著であるが、その芽は「哀しみ本線日本海」で受けた高い評価にあり、それによって彼女の重い十字架は放たれたのだろうと想像する。
 そして、その少し前のこの混迷する頃に結実した「あの人の船行っちゃった」は、少女の成長の証でもあり、また完成度も非常に高いと思うのである。
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1) 淡谷のり子は1999年9月22日年死去。92歳。死ぬまで現役歌手だった。
2) 参考:「私のいいふりこき人生」淡谷のり子(海竜社)