蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

父の自分史「生い立ち」

父の自分史 「生い立ち 」(13 最終回)

足尾銅山(戦前の絵葉書から) 昭和16年(1941年) 八月一日 勤労報国隊の一員として足尾銅山へゆく。 親戚宛礼状 謹啓 酷暑の侯とは申しながら、気候不順の折柄、皆々様には益々御健勝の御事と陰ながらお察し申し上げます。今回 私事 鉱山勤労報国隊の一員…

父の自分史「 生い立ち」(12)

田植え 昭和15年(1940年) 入学式には間に合わなかったが、どこか大人ぶって通った補習科も一年で終わる。そんな補習科で一生懸命に勉強したかと言うとそうではない。田植えなどの農繁期や雪の日は休んだ。そんな一年間だった。 当時の日記があったので書い…

父の自分史 「生い立ち」(11)

零戦 昭和14年(1939年) さらば学校よ、三月には卒業だ。鉄道官吏になる人、東京の会社に就職する人、満蒙開拓義勇軍に入る人など、それぞれに道が決まると先生も安心するらしい。皆んな広い世界に放たれ、それぞれがばらばらになるが仕方がない。頼りにな…

父の自分史「 生い立ち」(10)

火野葦平「麦と兵隊」 昭和13年(1938年) 高等科二年はこの学校の最上級生であるから何かと忙しい。看護当番は肩から当番記章をかけ、休み時間など校庭や教室に怪我や病気の生徒がいないか注意して見て回った。また、あのころはものを大事に使った。習字の…

父の自分史「 生い立ち」(9)

記念写真 昭和12年(1937年) 四月には高等科に進学した。殆どの同級生が入って来た。西と東の小学校からも大勢の入学があり、男子と女子は別々のクラスになった。受持ちは豊田先生がいいなと騒いでいると、その豊田先生が教室に入って来たので皆んなで手を…

父の自分史「 生い立ち」(8)

如拙「瓢鮎図」(注) 昭和11年(1936年) 四月に六年生になった。この頃までは大して生活が変わったとは感じていなかったが、これからはどんどんと変わる。いつもなら新学期には新しいボールが各教室に配られたがこの年辺りからそれもなくなり、体操の時も…

父の自分史「 生い立ち」(7)

下駄スケート 昭和10年(1935年) 五年生になる。今度の受持ちは何先生かと心配していたら、誰からもあまり好かれていない嫌な先生だった。最初からそう思っているのだから仕方ない。笑った顔は見たことがないし、常に額に縦皺を寄せて怒っている。 教室の戸…

父の自分史 「生い立ち」(6)

腕用ポンプ 昭和9年(1934年) 私たちのクラスはわりあい小勢で、上のクラスも下のクラスも二クラスあったが、六年まで一クラスであった。受持が初めて男先生ということで嬉しかったが、ただ皆んな少し元気になり過ぎたようだ。それを先生はうるさいと感じた…

父の自分史 「生い立ち」(5)

御真影 昭和8年(1933年) 一、二年は女先生が受持ちだった。三年になりどんな先生が来るのかと待っていると、男先生が入って来て、いきなり黒板に自分の名を書いた。それを見て皆んな笑った。詰襟服姿の若くて元気な先生に戸惑い、それを隠そうとしたのかも…

父の自分史 「生い立ち」(4)

国語読本(1933〜1940) 昭和7年(1932年) 進級すると一クラスに一個、新しいボールが配られる。これを投げたり蹴ったりして遊ぶことができるので休み時間が待ち遠しかった。廊下には各々の名前が付けられた新しい傘が並ぶ。いざという時のために用意してあ…

父の自分史「 生い立ち」(3)

田川水泡「のらくろ」 昭和6年(1931年) この年の四月、小学校に入学した。新しい着物は絣地で、羽織りも同じ絣の対であった。当時のノートは石版といい、薄い石板の縁を木で補強した帳面位の大きさのものだったが、それに石筆で書いては消し、消しては書い…

父の自分史 「生い立ち」(2)

日光羊羹 昭和5年(1930年) 毎日の主食は麦飯が殆どであった。一升の米に二合位が我が家の暮らしで、半々位のひどい家もあったらしい。食事は一汁一菜、魚や卵など毎日食うという訳にはいかない。例えば、ある家を訪ねた時、膳に卵焼きがあってもそれを食べて…

父の自分史 「生い立ち」(1)

父の自分史「生い立ち」の昭和4年から昭和16年までを載せ、当時の世相を簡単に探ります。ちなみに、文中の実叔父さんは既に亡くなっておりますが父は健在です。70を過ぎてから突如として書き始めた自分史ですが、文章はひどいものなので直して一部を抜粋しま…