蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

父の自分史 「生い立ち 」(13 最終回)

足尾銅山(戦前の絵葉書から)


昭和16年(1941年)
八月一日 
勤労報国隊の一員として足尾銅山へゆく。


親戚宛礼状
謹啓 酷暑の侯とは申しながら、気候不順の折柄、皆々様には益々御健勝の御事と陰ながらお察し申し上げます。今回 私事 鉱山勤労報国隊の一員として、当地にて八月一日より四十日間、勤める事となりました。何れ又後便にてお知らせ致します。先ずは葉書を以て御一報申し上げます。敬具


八月二日 曇り
午前中は入坑にに必要な品物を用意する。マッチ、手袋、地下足袋等。カンテラ、帽子は支給された。夜キネマ座で映画を見る。二十銭であった。


八月三日 雨曇り 四時五十分起床 
朝食を済ませ、支度をして待つ。係りの人に案内されて抗内に入る。側溝には水が流れ、所々に電灯が点いている。どのくらい入ったか見当がつかない。あかあかと電灯が点いている。事務所がある。現場の人に引率されて二人乃至三人に別れる。
入坑七時。作業開始九時。昼食十一時。午後零時半開始。三時終業。五時帰宅。二十五号社宅に移る。二十八畳に二十一人宿狛。
信夫君は今日、落石が向こうずねに当り、怖じけづいて明日は家に帰ると言い出した。仕事は楽だがとても不安だ。何時落盤するか分らない。南京虫がいて大騒ぎ。家のほうでは南京虫を見たことがなかった。就寝九時


八月二十三日 曇り雨
朝飯の時突然に、東京から来た人が立ちあがって演説を始めた。
「皆さん、我々報国隊の内で朝のお菜を二皿持って来て食べる方がいます。現にここに二人います」
良く見ればその側に二皿並べて悠々と食っている青年がいた。前々から二皿食う奴がいたのは知っていたが、呆れた奴だ。さらに続けて、
「この様に一人で二皿食われては後で食う者が足りなくなって困ります。だから弁当に、たくあんだけをお菜にして行く人が出来るのです。どうです皆さん、あの暗い坑内で、たくあんだけで弁当が食えますか」
実に当然である。
「以後、この様な卑劣な行動は報国隊の名誉に掛けて止めようではありませんか」
言い終わると、すぐ皆を見渡して立去って行った。三十前後であろうか。皆その男性的な言分に感銘した。件の青年もこそこそと一皿を飯場に返しに行った。誰でも二皿ぐらい食いたい。朝飯のお菜は少し食って、弁当のお菜に多く持って行きたい。誰もそうしていたのだ。それにしても大胆不適、図う図うしい奴もいたもんだ。
今夜は通洞山神社前の広場で納涼盆踊り大会がある筈であったが、この雨は全く残念だ。ガスを一貫目買う。新聞が来ていたのでむさぼる様に読む。暫く何も読んでいない。


八月三十日 曇り 起床五時半
今月の仕事も今日で終わり。選鉱の方なら続け番をしても良いと思った。もう一度選鉱へ行って見たいが、信夫君にさっぱり希望がないので俺も止めた。中島さんに続け番をしないかと言われたが、きっぱりと断った。今日は勘定仕舞なので二時半に終わった。割合い良かった。
今夜、報国隊員の船山さんという三十前後の人が足に大怪我をした。選坑での続け番中に、トロの綱が外れ坂を飛んで来たトロに当たったらしい。全治二ヶ月の重傷だそうだ。まだ来たばかりなのに可愛相なことだ。今夜は続け番をしなくて良かった。 就寝 十時


九月一日 興亜奉公日
あと一週間の辛抱だ、怪我をせぬ様頑張ろう。見張りに行って番割を受けたら、今までと同じ所だ。今度は良い場所をと思ったが、駄目だった。矢野さんとまた一緒なのはせめてもの救い。人が良くて仕事が早い親方なので安心だが、来て間もない人が一人いるので仕事は捗らない。四時一寸過ぎまでかかって漸く二電車終わった。   
この間怪我をした船山さんの足は、腿から切断だそうだ。全く可哀想だ。報国隊員として来てる人は多勢いるが、怪我で足を切断とは、誠に気の毒だ。今日も選坑で三人怪我をした。カツラでメカイに入れる時、落盤があり腰骨を酷くやられたそうだ。危ない。全く坑内に入るのが嫌になる。来た当時はこんなに怪我人はなかったが、この頃は馬鹿に多い。今日は関東大震災記念日と興亜奉公日なので、入坑前に神主のお払いがあった。気持ちが清々した。



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昭和16年
真珠湾(「目録20世紀1941年」講談社


主な出来事
李香蘭:2月11日、李香蘭出演の日劇にファンが殺到して警官隊が出動する騒ぎとなる。李香蘭は日中開戦の翌1938年(昭和13年)に満洲映畫協會(満映)から中国人の専属映画女優李香蘭(リー・シャンラン)として17歳でデビューした。
国民学校:4月1日、小学校が「国民学校」に改められ、初等科6年、高等科2年の義務教育8年制が採用される。
・バルバロッサ作戦:6月22日、ナチスドイツがソビエト連邦に対して攻撃を開始し、独ソ戦が始まる
・新教教会の合同: 6月24日、日本基督教団創立。(認可は11月24日)
・継続戦争:6月26日、フィンランドソビエト連邦に対して宣戦布告。
ハンガリー:6月27日、ハンガリーソビエト連邦に対して宣戦布告。
パルチザン:チトーがパルチザンを組織し、ドイツ軍に対しゲリラ戦を開始。
・対ソ参戦:6月30日、ドイツが日本に対して対ソ参戦を申入れるも日本は拒否。
ゾルゲ事件:10月18日、尾崎秀実が国際スパイ容疑で検挙され、続いて在日ドイツ大使館顧問リヒヤルト・ゾルゲらが検挙された。尾崎は日本の軍事政策の動向を探知し、ソ連のスパイだったゾルゲと共同してソ連に情報を流した。ゾルゲは1941年中に日本の対ソ攻撃はないとモスクワに打電。ソ連軍は全力を対ドイツに向けることができた。
真珠湾攻撃:12月2日、山本五十六連合艦隊指令長官が「ニイタカヤマノボレ一二〇八」と発信。12月8日午前0時を期して真珠湾を攻撃せよという暗号だった。7日(日本時間8日)、米ハワイ沖に停泊していた機動部隊から爆撃機真珠湾に波状攻撃をかけ、停泊中の「アリゾナ」をはじめ米海軍の4雙を沈め、トラトラトラ(我奇襲に成功せり)と発信した。これにより太平洋戦争が始まり、第2次世界大戦は地球的規模に拡大する。但し、アメリカ合衆国をはじめとする旧連合国は真珠湾攻撃時の現地日付である12月7日を開戦日とする。
・日泰同盟:12月21日、大日本帝国タイ王国の間で日泰同盟調印。


流行り言葉や初登場のものなど
大本営発表:太平洋戦争の期間中、陸軍 海軍の統帥機関である大本営が国民に向けて発表した戦況報告。  
八紘一宇:世界を一つの家にするという意味。「八紘」とは四方と四隅。八方の非常に遠い果てを意味し、「一宇」は一つの家のこと。

その他にも
生きて虜囚の辱めを受けず・米英軍と戦闘状態に入れり・月月火水木金金・進め一億火の玉だ・配給・折り紙、・防空ずきん など

モノ語り41「目録20世紀1941」


流行り歌やその年のレコード
童謡「たきび」
童謡「たなばたさま
童謡「船頭さん」
童謡「里の秋」(注)
童謡「海」
二葉あき子「めんこい仔馬」
高峰秀子「森の水車」
石田一松「のんき節」


森昌子「里の秋」
https://youtu.be/nxKYZCCWbDo


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)「里の秋」と「星月夜」:
 「里の秋」(さとのあき)は、日本の童謡。作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實。童謡歌手の川田正子が歌い、1948年(昭和23年)、日本コロムビアよりSPレコードが発売された。小学校の音楽教科書に長年採用され、2007年(平成19年)「日本の歌百選」に選ばれた。

 「星月夜」(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校の教師をしていた1941年(昭和16年)12月に作られた、1番から4番までの歌詞で、後に童謡の雑誌に掲載された。太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、その思いを書き上げたと言われている。1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。
 童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。 そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。(ウィキペディア


参考)足尾銅山に関する旧記事
俳句23 銅の山


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 「父の自分史 生い立ち」を読んでいただきありがとうございます。時代が時代ですから内容の大半は戦争に関するものなのですが、あえてそれ以外の部分を抜粋しました。この後、父は19歳で徴兵検査を受け大陸に渡ります。そして大陸で敗戦を迎え、敗残兵として帰国するのですが、その様子を「従軍記」として書いてます。


父の自分史 従軍記



 上戸彩主演のドラマ「李香蘭(上)」は昭和16年日劇公演までが描かれています。「父の自分史 生い立ち」も昭和16年までですから時代が重なります。興味あるかたはご覧下さい。


ドラマ「李香蘭(上)」
https://youtu.be/6D8zO8gwS0Q