蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

父の自分史「 生い立ち」(9)

記念写真


昭和12年(1937年)
 四月には高等科に進学した。殆どの同級生が入って来た。西と東の小学校からも大勢の入学があり、男子と女子は別々のクラスになった。受持ちは豊田先生がいいなと騒いでいると、その豊田先生が教室に入って来たので皆んなで手を叩いて喜んだ。初めて先生らしい先生に巡りあえた。

 体操の時間は先ず駆足だ。そのころにはもうボールはなかったし、裸足で校庭を駆けるばかりだ。また、校舎の玄関口に大きな松の木があり、記念写真は必ずこの松を背景にして撮ったものだったが、今は校庭も広くなりその松の木もあのころの校舎もない。


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昭和12年
蘆溝橋事件(「目録20世紀1937年」講談社



主な出来事
・死のう団事件:2月17日、日蓮宗系の殉教的宗徒集団「日蓮会」の5人が皇居、国会議事堂前などで切腹を図る。
・爆発事故:5月6日、ヒンデンブルク号爆発事故
蘆溝橋事件:7月7日、北京郊外の蘆溝橋近くで日中軍が衝突。その後全面戦争へと突入する。7月11日、政府は蘆溝橋事件を「北支事変」と公表したが9月2日には「支那事変」とする変更を閣議決定する。
・第二次上海事変:8月13日、上海で海軍陸戦隊と中国軍が交戦開始。
・国民精神総動員:8月24日、国民精神総動員実施要項決定。
戦艦大和:11月4日秘密裏に建造開始。竣工は16年12月。
長谷川一夫:11月12日暴漢に襲われる。
大本営:11月20日、政府は大本営を設置する。
・イタリア連盟脱退:12月11日、イタリア王国国際連盟を脱退。


流行り言葉や初登場のものなど
銃後:戦場の後方。大陸で戦う戦士たちの前線に対して、内地にいる直接戦闘に加わらない一般国民を表した。帝国議会開院式の勅語、「銃後ノ臣民」が新解釈の決定版になった。以前は「砲火の背後に活動する将士」の意味だった。
トーチカ:ロシア語で点の意。コンクリートで堅固に構築して中に銃火器などを備えた防御陣地。火点。中国軍が上海市内や近郊に築造して日本軍に難渋させたことから、なかなか思い通りにならない人物などを指して言うようになった。
その他にも
千人針・馬鹿はしななきゃなおらない・サングラス・サントリー角瓶・ホームドライヤー・国産超小型カメラミゼット・綴方教室 など

モノ語り37「目録20世紀1937」


流行り歌やその年のレコード
童謡「山寺の和尚さん」
灰田勝彦「僚機よさらば」「感激の南京入城」
ディック・ミネ「林檎の樹の下で」「人生の並木路」
岸井明 、平井英子「タバコやの娘」
四家文子「軍国子守歌」
小林千代子「銃後の花」
松島詩子マロニエの木蔭」
松平晃「泪のタンゴ」
上原敏、結城道子「裏町人生」
上原敏「妻恋道中」「流転」
淡谷のり子別れのブルース」「私のトランペット」
三門順子「春色明治姿」「さくら道成寺
東海林太郎「すみだ川」
古賀久子「小楠公
藤山一郎「青い背広で」「青春日記」
徳山たまき「眠れ戦友」「南京陥落大勝利」
二葉あき子「乙女 19」
渡辺はま子「愛国の花」
林伊佐緒、新橋みどり「若しも月給が上がったら」



渡辺はま子「愛国の花」
https://youtu.be/cAJZMNv3BJo


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):「愛国の花」(あいこくのはな)は、1937年(昭和12年)にラジオの国民歌謡として作られ、1938年(昭和13年)4月に渡辺はま子の歌唱で日本コロムビアからレコード化された歌謡曲である。銃後を守る婦人の思いを桜、梅、椿などにたとえて歌う。福田正夫作詞、古関裕而作曲。映画化は1942年(昭和17年)(ウィキペディア