蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

2-3 森昌子の原点「南国土佐を後にして」

1974年頃
 森昌子が生まれて初めて歌った歌が1歳7ヶ月の時のこの「南国土佐を後にして」で、3歳の頃には既にマスターしていたと言われている。この曲は武政英策の作詞作曲によるもので、1959年ペギー葉山の歌でヒットした。その数年前に二人の歌手がレコード化していたが世間の芳しい評価は得られず、後のペギー葉山の歌でヒットしている。その差はどこにあったのだろう。

 ペギー葉山は、幼少時から歌が好きだったことから青山学院中学部(現中等部)在学中に声楽を習い、音大を志望していたが、同女子高等部(現高等部)2年の時にクロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動しクラシックからポピュラー、ジャズへの転向を決意する。その後進駐軍のキャンプで歌い、またティーブ・釜萢の口利きで、当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスター・ダスターズの三代目専属歌手となる。そして学校卒業後の翌1952年に「ドミノ・火の接吻」(キングレコード)でデビューし、1954年にはNHK紅白歌合戦に初めて出場する。
 更に、1958年ミュージカル「あなたの為に歌うジョニー」で芸術祭個人奨励賞受賞し、 翌1959年には「南国土佐を後にして」の大ヒットで、ジャズ、ポピュラー界だけではなく歌謡界においてもその地位を不動のものとした。他にも、1960年のオーストラリアでのテレビ番組1か月レギュラー出演や、この年の8月のミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の劇中歌「ドレミの歌」の作詞、発売などがある。
 しかし、生来病弱であったことに加え、その人気による過密スケジュールから、1963年に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされたが、療養中の「ラ・ノビア」のヒットや、復帰翌年1964年の「学生時代」がロングセラーとなり人気の健在ぶりを示した。(ウィキペディア要約)

 ヒットの要因は彼女の西洋音楽的な発声法にあり、お座敷歌風の日本調よりも強く大衆にアピールしたものと言われている。「南国土佐を後にして」は1ヶ所だけ「シ」の音が使われていて、厳密な意味でのヨナ抜き5音階とは言えないが、全体的にはヨナ抜き5音階、都節風に作られており、後半の土佐民謡「よさこい節」に繋いで、日本的な音階構成になっている。つまり演歌と民謡の基本的な音階で作られている曲なのである。
 そして歌っているのは西洋的歌唱法を学んだペギー葉山で、それを3歳の少女が覚えたことになる。耳もまた非常に良いことが解かる。この少女が演歌や民謡の曲調を2、3歳の頃に体感し、同時にそれを西洋風に発声する方法をも体得したであろうことは想像に難くない。それは中山晋平が完成させたヨナ抜き5音階の哀感と庶民の生活の歌とも言える民謡の喜怒哀楽を、ペギー葉山の西洋的歌唱法で歌うということに他ならない。
 故に、いささか乱暴かとは思うが、この曲に含まれたそれらの要素が歌手森昌子の歌の原点なのだろうと推論するのである。
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参考:「想い出そして未来へ…」、「日本民衆歌謡史考」園部三郎(朝日選書)