蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

7-1 「さようなら」森昌子(1)

 

 「固いつぼみが大輪になる日をずっと待っていました。一つの恋によって女の花が開いた時、歌手森昌子との別れが待っていました。スターであるより、一人の平凡な娘としてあなたは今去っていく。どんな豪華な花嫁衣裳より美しい歌声と涙を残して…。15年間私たちを楽しませてくれてありがとう。お倖せに…さようなら」

 これはフジテレビ「夜のヒットスタジオDELUXE」で「雛ものがたり」の後、エンディングに流れたテロップである。確かに大輪になる日をずっと待っていた。しかし本当に大輪の花になったのか。それは今開き始めたばかりではないのか…。夢の途中ではないのか…。「まだまだ遊んでいたいけど…」と、彼女は歌と結婚との間に揺れる心を見せるが、若い頃からの夢であった結婚への想いは捨てきれない。彼女のその想いは理解しなければならないが、女としての夢とファンの夢の並存は可能だろう。だが、一途な彼女はそれを選ばない。器用ではないのかもしれない。その時の様子を堀威夫はその著書で、「周囲の反対を頑として押しのけた…その健気なまでの決意」と記している。


 引退の頃、彼女は二つの大きなコンサートを行っている。ひとつはファイナルコンサート(1986年8月 歌舞伎座)であり、二つめがその2ケ月前の15周年記念コンサート(1986年6月 NHKホール)である。結婚に対する期待からか、もう歌を歌わなくても良いという安堵からか、ここでの彼女は吹っ切れた感があり、以前の天才少女のような自由自在の歌唱振りである。これで彼女が背負ってきた重みを知ることができる。
 15周年記念コンサートでの絶品は「寒椿」であろう。ライブでは感情を押し出し過ぎる彼女がそれを抑え、枯山水の如く昇華した歌唱を見せてくれる。成長した天才少女の渾身の歌唱がここにある。弦楽器二本のシンプルなバックに彼女の澄みきった高音はモノクロームの風景を描き、その中に唯一の色彩、寒椿の赤を際立たせる。人家を離れた小道の傍らに、毅然として花を開く寒椿の様が一幅の絵のように浮かんでくる。
 18歳の『旅立』の頃から彼女の成長は精神面だけでなく肉体的にも顕著で、この頃になると女性としての美しさにも磨きがかかり、声もまた一段と研ぎ澄まされ、ほぼ完成される。太い音と低音部の強い音は失う傾向にあるが、研ぎ澄まされた高音がそれをカバーしている。その太い音と低音部と強い音を駆使した彼女の演歌らしい演歌は十代の頃に多く、例えば1971年「涙の連絡線」13歳(スター誕生)、1977年の「他人舟」18歳(LP「演歌に涙と青春を」)、1977年の「船頭小唄」18歳(LP「涙の熱唱」)等である。ここで見せた「寒椿」は、それらを経た後の凄みを増した大人の歌唱で、この頃にならなければ歌えない趣の絶品なのである。
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 2月12日「玉置宏氏、前日の11日に死去」の訃報に接した。森昌子さんが「東京のお父さん」と呼んだ玉置宏氏は、独特の語り口で歌謡界全盛時代にその一翼を担った名司会者である。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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