蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

4-2 森昌子と船頭小唄

1977年

 中山晋平は「船頭小唄」で晋平節を定着させたと言われている。晋平節の特徴はヨナ抜き5音階で、それはドレミの4番目と7番目の音、ファとシを抜いたドレミソラドの5つの音による音階のことである。ヨナ抜き5音階は伊沢修二の努力の結晶とも言えるものであるが、その詳細は後に機会を譲ろうと思う。
 森昌子はその「船頭小唄」をLP「涙の熱唱」(1977年)、10周年記念盤「森昌子5枚組」(1981年)に収めている。また、この歌を歌うテレビ映像がYoutubeに投稿されており、鬼気迫る歌唱を見ることができる。そこに私の言う「旅立ち」で見せた自信が窺えるのだが、それがまだ19歳の女性であることに思いが及ぶと、再び痛ましいとの思いが浮かんでしまうのである。
 森昌子の「船頭小唄」が放送されたのは1977年10月17日(月)テレビ朝日「新にっぽんの歌 花のスタジオセブン」の番組の中で、19歳誕生日の4日後のことである。その時の感動を記した当時の女子高生の記録を次に引用する。その時代の中にあった人のその時の感動こそが、その場の情景を最も的確に表わすことができると思うが故に。

 この番組の目玉的コーナーの「花のリサイタル」ってのに、紛れも無くマコの姿が・・・。中央の台の上に和服を着たマコが立っていたのです。うれしかった!!今日は森進一とかチータとかベテランの歌手がたくさん出てたのに・・・。自分の目を疑ってしまったくらい。大先輩を差し置いて、10代のマコが出来るなんてすごい!!やっぱり若くてもそれだけの実力があるからだよね。私はひたすら誇りに思えてうれしかったです。 森光子さんがナレーションを入れてくれたんです。“ついこの間19歳になったけど、昌子さんと言うよりもまだ昌子ちゃんって言った方がいい・・・・”なぁんてね。
 歌は「カチューシャの唄」とか、この前の大正ロマンを歌うの続編って感じ。「船頭小唄」がまたひたすら良くて感動でした。ワンコーラス目はぐっとスローテンポで、バックの演奏もギターの爪弾きだけ、それが実に歌に乗っていて雰囲気が最高。向こうでトノキンや森さんたちがマジ〜〜メな顔して聞き入っていた。 私なんかあまりに感動してしまい 明日のテストの勉強をそっちのけにして、この文章書いてるくらいだから・・・。でも後で書くと、せっかくの感動が薄れてしまうような気がしたから 今のうちに書き留めておこうって。
 (中略)
 今日みたいな感動的な歌声を聞くと、私の考えは間違っていないんだって思えるの。たとえ地味でもこれだけ人の心を動かせる歌手は他にいないから。ただ、まだ多くの人たちがそれに気が付いていないんだと思う。”今に見ておれ、マコだって!!”の精神を絶対に忘れないからね。(「想い出そして未来へ…」より)

 中山晋平音楽学校卒業して間もない27歳の大正3年に「カチューシャの唄」で歌謡界に新風をもたらし、一躍脚光を浴びる。その後も島村抱月の芸術座公演における劇中歌作りは続き、「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」「破浮の港」等を次々と発表して大衆の心を捉えていく。「当時の中山晋平といえば日本中の歌謡曲、民謡曲を一人で背負って立っているような存在で、この人の手にかかったもので流行らぬものはなしと言う人気だった」(「唄の自叙伝」西条八十)と言われる程、その時代の第一人者となっていた。
 「船頭小唄」は作詞野口雨情、作曲中山晋平による大正10年(1921年)の作品で、当初は民謡「枯れすすき」と題されていた。ヨナ抜き5音の短音階でそれまでの長音階とは異なり、日本人の好みに合う哀感ある響きをその特徴としている。


 大正10年頃の日本は、戦争特需や戦勝による好景気は終息して物価高・不景気の世相にあり、富山の米騒動に代表されるように庶民の生活は窮乏の最中にあった。こうした世相は昭和初期の世界恐慌、日本においては資本主義始まって以来という大恐慌へと続く予兆でもあった。そんな世間の逼迫感や自暴自棄的な風潮に哀感ある晋平節の短音階は共感を呼び、また何人もの歌手のレコード化や映画化等により、流行は全国なものとなる。一部の知識人や当時の目標であった欧米化に馴染みつつあった人たちはその退廃・懐古的な響きや厭世的な雰囲気を嫌悪し、その流行が子供たちにも広まることを危惧して排斥を図ったようである。「船頭小唄」は子供たちをも巻き込んだ騒動になるのである。


 明治初期の伊沢修二苦心の結晶であるヨナ抜き5音階は大正期の中山晋平の登場によって花開く。それ以前の明治後期に、田村虎造や滝廉太郎によって口語体によるヨナ抜き5音階の唱歌が相次いで創作されていたが、それは唱歌に限っており大衆歌謡としての楽曲は前述の通り中山晋平によるところが大きい。特にこの「船頭小唄」は民衆の心に響き、この後、晋平節は昭和流行歌の大きな源流となる。流行り歌は昭和の時代に流行歌として隆盛するのである。
流行歌とは

  • ①一般的には昭和初期以降のもの(大正期は江戸の流行り歌から流行歌への過渡期)で、
  • ②都会で流行し全国に広まった大衆歌曲であり、
  • ③比較的流行の短いもの(長い期間愛唱されたものは民謡に範疇される)

と、園部三郎は定義する。そして演歌と呼ばれた流行歌は能楽から浪花節にまで用いられたユリやコブシ等の日本の伝統的な唱法を多用し、中山晋平のヨナ抜き短音階による哀感ある旋律をその特徴として人々の共感を得るのである。


 歌は人が生活上必要とするもので、喜怒哀楽を表すのに最も適した道具であった。それぞれの地域で、それぞれの階層の人たちが、その辛さや悲しみの癒しのために、また明日への希望を失わないために歌い継いできた。娯楽や余暇の少ない時代にそれは仕事の場にも及んで人々の生活に潤いや希望を与え、生活の糧としての役割をも担ってきた。それは単に労働歌、民謡と言うのみでは足らず、むしろ生活の歌と呼ばれてしかるべきものであった。流行り歌、流行歌もこの範疇で、それは世間の風が厳しい時に及んでも尚、人々の傷んだ心を支えたのである。
 その象徴としての歌をこの大正期の「船頭小唄」に見る。この「船頭小唄」で19歳の森昌子は、その時代の人々の慟哭をその歌唱の中に示している、と私は感じるからである。
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1)園部三郎は「コブシはユリの俗称である」と言う。
2)大正・昭和初期の主な出来事

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参考:「想い出そして未来へ…」、「日本民衆歌謡史考」