蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

5-1森昌子 あの頃、1981年


「日曜日の朝、朝ごはんができるまで、お父様の自転車の後ろに乗って、お父様と一緒に声を合わせて歌うのが、何よりの楽しみだった森昌子ちゃん、こんなに大きくなりました」
 第32回「紅白」で、赤組トリの森昌子を紹介する司会者黒柳徹子の言葉である。初めてのトリを務めたのは81年の暮れ、23歳の時だった。彼女自身、著書に「賞に対する興味は余りなかった」と書いているが、実際にもデビュー時を除けば、目ぼしい賞には殆ど縁がない中でのこの栄誉だった。賞に対する興味がなかったとはいえ、与えられた栄誉には感ずるものがあったろう。「化粧するのはあまり好きでなく、メイクさんから逃げ回ったこともある」と同じく書いているが、この日は普段とは違い、それも念入りだったと思われる。そこに、この栄誉に対す彼女の想いが込められているのかも知れない。


 この「哀しみ本線日本海」は、荒木とよひさ作詞、浜圭介作曲による37枚目のシングルで、この年の7月10日に発売された。この前々作「波止場通りなみだ町」あたりから本格的な演歌中心の曲目になり、その3作目に当る。また、前々回の紅白で、出場5回目にしてトリを務めた山口百恵は、80年の10月5日に突然引退し、芸能界のみならず世間にも多大な衝撃を与えていた。この「高三トリオ」の一人でホリプロの後輩に数年にして追いつかれ、その後塵の中にあった感のある森昌子は、彼女の引退に秘めた思いを湧かせたと思う。その時から既に1年と数ヶ月が経ったこの日の栄誉だった。以下は80年後半から81年までの森昌子の大まかな軌跡である。


80年9月21日(21歳)「波止場通りなみだ町」発売
80年10月5日 山口百恵引退
81年1月21日(22歳)「北寒港」発売
81年7月10日(22歳)「哀しみ本線日本海」発売
81年9月13日(22歳)10周年記念リサイタル
81年9月18日〜12月25日(22、23歳)TBS「想い出づくり」出演
81年12月31日(23歳)「紅白」初トリ「哀しみ本線日本海


 この軌跡の中に「哀しみ本線日本海」の他にもう一つの傑作が含まれる。TBSドラマ「想い出づくり」である。これはドラマ自体の評価も高く、また演技者としての彼女も注目された。彼女自身、既に何本かの映画やテレビドラマの経験があり、また「欽どこ」でのコメディタッチのユーモラスな演技で達者ぶりを見せてはいたが、現在を舞台にした同じ年頃の役柄は、演技によっては生身を晒しかねず、酷評を浴びる恐れもあった。そんな状況下で得た高い評価もまた、彼女の自信に繋がったのだろう。


 TBSドラマ「想い出づくり」(9月18日〜12月25日放送)の概要は次のように記される。

結婚適齢期(24歳)を迎えた3人の女性が“想い出”を探す、人気脚本家、山田太一のオリジナル書き下ろしドラマ。TBSが開いた俳優養成所緑山私塾から田中美佐子ら多数が出演した。平均視聴率15.2%(ビデオリサーチ 関東地区)で、フジテレビの連続ドラマ「北の国から」の裏番組でもあった。「北の国から」は放送開始当初は、本ドラマに対して苦戦を強いられ、視聴率が大きく伸びたのは本ドラマ終了後のことである。(ウィキペディア
脚本:山田太一、音楽:ザンフィル・小室等、プロデュース:大山勝美・片島謙二、演出:鴨下信一・井下靖央・豊原隆太郎
主な出演者:佐伯のぶ代(森昌子 )、吉川久美子(古手川祐子)、池谷香織(田中裕子 )、根本典夫(柴田恭兵 )、のぶ代の父(前田武彦)、のぶ代の母(坂本スミ子)、のぶ代の弟(茂)(安藤一人)

 全編に溢れるザンフィルのパンフルートによるメロディが印象的で、また、三人が最後に会う場面に流れる吉川久美子(古手川祐子)のナレーションは、同年代の多くの女性の共感を得た。

 でも、まだ今は静かで、三人で、ああいうこともあった、こういうこともあった、と懐かしく話をした。そして2時間ほど経つと、まず香織さんが言った。「私もう、帰えんなきゃ。彼待ってるから」「私も」「私も」…「ああ、こうやってだんだん会わなくなっちゃうのかなあ」と香織さんが言う。「そんなのヤダア」とのぶ代さんと私が言い、夕暮れの町で三人は別れた。…(いつの間にか、想い出をつくろうなんて、思わなくなっていたな。三人とも夢中だったなあ)そんなことを私は、一人になって歩きながら思った。(TBSドラマ「思い出づくり」より)

 そしてもう一つ、この頃の彼女の内面に「ある兆し」を見ることができる作品がある。それが次の、この年9月の「10周年記念リサイタル」エンディングに歌った「愛をこめて」である。


ほんの小さな出来事が 忘れられない想い出になる
あれはおだやかな春の午後 一通の手紙で始まった 運命の一ページ
いつの日も人の心のしあわせは
比べられるものではないけれど 毎日が楽しかった
今私は明日を信じて歩きます 愛するものへ 愛する人へ 心をこめて


時の流れは早いもの 季節の中をさまよいながら
あれはさわやかな春の風 初めて歌った愛のうた 人生の一ページ
何げない一つ一つのふれあいが 
そっとしあわせ運んでくるものなのね やすらぎのひと時を
今私は明日を信じて歩きます 愛するものへ 愛する人へ 心をこめて


 彼女自身の手になる歌詞である。そして以下は私の解釈である。1番にはデビューから高校卒業の頃までのことが書かれており、それは「忘れられない想い出、始まった運命の一ページ、毎日が楽しかった」等で特に象徴される。そして2番にはそれ以降の混迷と進むべきを道を見出した喜びが記され、それらは「季節の中をさまよいながら、しあわせ、やすらぎ、明日を信じて」等で表現されている。この「愛をこめて」には、彼女の歌手としての歩みが暗に示され、さらに周囲に対する「心をこめた」感謝の気持ちが含まれている。そして予感される旅の終りに対する安堵と感傷を、2番の「時の流れは早いもの 季節の中をさまよいながら」で、思わず声を詰まらせる彼女に見る。コンサートでのいつものパターンといえばそれまでだが、言葉が言葉だけに心に響く。理由を探したくなる。明日が見えた時に顧みる過去に意味があり、過去を想うのみなら、それは単なる懐古趣味でしかない。この頃、確かに彼女は明日を見据えたのだろう。
 森昌子は、この頃までの歌手としての自分の軌跡を記し、自ら歌った。ペンを持ち、自らの思いを公にすることは勇気がいる。既に名の知られた人であれば、なおさら覚悟もいる。彼女はそれを書く必然の中にあったといえる。それは目指すべき道が見えたからに他ならない。私は「天才少女の旅立ち」の中で、「天才少女は試練の待つ荒野に歩を進め、その資質を問われる運命に置かれた」と書いた。それは美空ひばりの言う「風雪」の時そのものであったのだが、その試練の旅はこの81年に終りを迎える。「紅白」でのトリはその旅の終着駅となるのである。それはこの「哀しみ本線日本海」と「想い出づくり」でその資質を示し、そして変わりつつある周囲と自分とに気がついたからに他ならない。この時彼女は、風雪の先にある明日をしっかりと見据えていたと思えるのである。