蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

1-2 少女森昌子の挑戦(2)

デビュー頃
 森田昌子の選んだ曲は都はるみの「涙の連絡線」だった。いや、選んだのではなく叔母から渡された譜面が「涙の連絡線」だった。「涙の連絡線」は都はるみの11枚目のシングルで、1965年6月に発売されていた。都はるみはその前年3月にデビューし、同年10月の3枚目のシングル「アンコ椿は恋の花」でレコード大賞新人賞を受賞していて、既にスター歌手の一人であった。当然歌の好きな6歳の女の子はこの曲を聴いていたろうし、その特徴を真似て歌っていたかもしれない。
 都はるみの特徴は、それまでのちりめんビブラートとは異なるゆったりとした振れ幅の大きいビブラートとうなりにあり、そしてこの特徴的な「コブシ」と「うなり」は聴衆に衝撃を与え、以降、演歌のみならず日本の歌謡界に大きな影響を与えるのである。


 人見知りで引っ込み思案であったという一人っ子を心配した叔母は、彼女の得意な歌で度胸試しをさせたかったのでは、と本人は述懐する。観客の前で歌う姿に、少女がそれを気にするようには感じられない。しかし、日常を共にする近親者が理由もなくそう言う筈もなく、時折見せる様子にその影を見ていたのかもしれない。本人が気づかないちょっとした素振り、ちょっとした物言いにその気配を感じての憂慮であったのかもしれない。そうした人は様々な思いを内に秘め、感性が人に増して優れている場合が多い。言葉での表現を不得手とする人が別の方法で世に名を成した例は多いのである。彼女の場合、それは歌うことになるのだろう。
 少女の「涙の連絡線」は彼女の情感を十分に表わしており、13歳とは思えない哀感を見せてくれる。この曲はその頃の彼女の感情を表現するのにちょうど良い歌であったのかもしれない。13歳の少女の高音は成長した女性のものではなく、低音部は女性にしては野太い響きがあった。それはデビュー当時の都はるみより低く、少年の様な力強さがある。そのためなのだろうか、その歌声は大人びて聴こえる。


 都はるみの真骨頂は「アンコ椿は恋の花」に見られる「うなり」と振れ幅の広いの「コブシ」にあるが、「涙の連絡線」には「アンコ椿は恋の花」に比べればそうした箇所は少なく、それもまたこの頃の少女には好都合だったのかもしれない。過多な「うなり」や「こぶし」は一過性の興奮に陥りやすく、より人の心に訴えるにはこの切々感の方がはるかに勝っているからである。
 少女はこの年特有の豊かな感性の中に、普段は叔母にも見せないだろう大人びた情感を見せ、その年を忘れさせる哀感を示して大人たちを驚かせたのである。それは心配してくれた叔母に対する少女の精一杯の応えなのであったのかもしれない。これが「せつせつと歌い、感心させ、感動させた…」(「夢を食った男たち」阿久悠)との表現に繋がるのだろう。
 また、この「せつせつと歌い…」の表現は絶に巧妙で、少女の表情とそこから発せられる大人びた歌声、そして呼気をも忘れて聞き入る審査員や観客と、その場を思い起こすのに苦労もしない。勿論、少女の歌唱に対する論評なのだが、それのみに留まらず、その会場の様子を映像のように浮かび上がらせてくれるのである。
 13歳の少女が何故このように歌うことができるのか不思議で、賛辞の言葉も忘れてしまうのだが、間違いのない事実である。デパートで帽子と靴とワンピースを買って貰うと大喜びだったという女の子は、大人に混じって予選を勝ち抜き、決戦大会ではその大人たちを震え上がらせるのである。驚かずにはいられない。
 その時の会場と審査員の様子は前掲「夢を食った男たち」の別の箇所に詳しい。

 小柄というよりは子供の体型で、何一つ光るものは持っていなかった。要するに普通だった。会場に場違いの子供が紛れ込んだかのようだった。その彼女が歌い出すと、一瞬にして会場は変わる。審査員が思わず腰を浮かし、一瞬、表情を緊張したものに変え、やがて、深い深い溜息をついて微笑んで顔を覗き合う状態になるまでいくらも時間がかからなかった。13歳の少女森田昌子は、都はるみの「涙の連絡線」を歌ったのだが、それはまったく見事な演歌で、ある人は背中に寒さが走ったと言い、会場のざわめきを鎮めてしまうだけの力があった。(「夢を食った男たち」要約)

 13歳の少女にその時代を担っていたそれぞれの分野のプロたちが、それほどまでに反応すること自体が奇跡に近い。大望の下に立ち上げた「スター誕生」がその意義を見出せず、存続の危機の最中に救世主らしき少女が現れたと思ったにしろ、それだけでこの反応にはなるまい。彼らはひたすら待っていたことも忘れて、ただ純粋に感動したに違いない。


 「スター誕生」は1971年10月に始まった番組名通りのスターを作り出すことを目的とした番組である。この番組が始められた要因に当時の音楽業界、テレビ業界の差し迫った実情があったと言われているが、それのみには限るまい。確かに時代は鬱積した中にあったが変革が求められており、当然その打開策は模索されていただろう。そんな頃に「スター誕生」は阿久悠の企画でスタートしている。「歌謡界の常識で言うとぼくらはやはりハネッかえりであった」との認識を持つ阿久悠は、その中心にいて歌謡界の変革を求めていたのだろう。鬱積した時代を切り開くのは行き場を失った若者たちにのみ課せられたものではあるまい。その時代の先頭を走る人たちの最優先させるべき役目であることを阿久悠は感じていた筈だ。


 森田昌子の出場は「スター誕生」7回目で、その回を勝ち抜き年末の決戦大会に進んでいる。前述はその決戦大会での模様で、少女森田昌子がその存在を世に示した最初の瞬間である。いわゆる「少女たちの時代」の幕が開こうとする瞬間だったのである。
この日の決戦大会の模様は翌年の1972年1月2日に放送された。