蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

1-1 少女森昌子の挑戦(1)


 1971年、街中には尾崎紀代彦の歌う「また逢う日まで」が流れ、少し小さな通りの若者が多くの住む辺りでは吉田拓郎の「青春の詩」を聞くことが多かった。
 70年安保に対する反対運動は、特に学生の間で全共闘新左翼諸派の運動として全国的に盛んであったが、安保が前年の1970年に自動延長になったことでこの頃は沈静化しており、目標を失った一部の活動家は当時の争点の一つであった成田新空港反対闘争にその矛先を変えていた。そうした鬱屈した世間の影響もあってか若者の間に虚脱めいた雰囲気があり、メディアは三無主義なる言葉を頻繁に使うようになっていた。


 そんな若者に向けて吉田拓郎は「青春の詩」で問いかける。これでいいのか、これで満足なのか、と。初期の頃の拓郎は岡林信康の直接的な物言いとは違い暗喩を多用した。悪いものは悪い、正しいことは正しいと苦行僧を思わせる風貌で直接的な言葉を叫び、後にフォークの神様と言われた岡林とは違い、拓郎は外見的に学生っぽさを残したまま含みある言葉で字余り的に歌い、女性受けも良かった。
 また、当時読まれた本にもその影響が見られ、「日本人とユダヤ人」(山本七平)の隣に「戦争を知らない子供たち」(北山修)、「二十歳の原点」(高野悦子)等が街中の小さな書店でも必ずその入口近くに並べられていた。虚脱はある種の喪失感であり敗北感であり、そして無常観をも含んでいた。若者はその鎮魂の為にそれらを必要としていたのかもしれない。
 そして映画館の看板には「儀式」(大島渚)の大きな文字があり、別の映画館には「八月の濡れた砂」(藤田敏八)の気怠さを漂わせたポスターが貼られていた。大島渚は日本のヌーベルバーグと称された内の一人であり、若者の共感を集めた野心的な作品を創り続けていた。そして「あの夏の光と影はどこへ行ってしまったの…」と、どこからともなく流れてくる石川セリの歌声は、諦めかけた若者の胸に響いて心の変化を促しているかのようだった。
 家に戻ってテレビのスイッチを入れると、そこには毎日のように成田新空港反対闘争の映像が映し出され、別のチャンネルにはデビューしたばかりの小柳ルミ子が八重歯を覗かせて「私の城下町」を歌う姿があった。1971年とはそんな時代であった。


 そんな時代のある日、少女は叔母に連れられて有楽町で降り、近くのデパートへと向かっていた。途中、流行のホットパンツの少女とアメリカンクラッカーの乾いた音を響かせて歩く若いカップルと擦れ違ったりもする。
 少女の名は森田昌子。東京の港中学校(現三田中学校)の1年生で、ナチュラルウェーブおかっぱ髪の小柄な女の子である。ちょっと遅いが、中学入学祝いに何か買ってくれるという叔母の言葉に喜んでついてきたところであった。この時少女は、この後直ぐ「スター誕生」なる番組に出ることになるとは考えてもいなかった。