蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

2-1 森昌子 明日を夢みて


 「スター誕生」で天才振りを発揮した森田昌子は森昌子として、1972年7月1日、阿久悠作詞、遠藤実作曲の「せんせい」でデビューすることになる。しかしデビューまでのプロセスは、詞を依頼された阿久悠、所属することになるホリプロ堀威夫、そして「スター誕生」プロデューサー池田文雄等にとって三者三様である。


 阿久悠は詞を依頼されるとは考えておらず、「天才少女か」と頭を抱えたという。「ぼくも含めて、歌謡界の認識からいうとやはり、ハネッかえりの傍流で、…遠藤実作曲、阿久悠作詞の曲が成立するとは思いもしなかった」(「夢を食った男たち」阿久悠)は実感であろう。そして続ける、「大人たちに寒気を感じさせるほどの衝撃を与えた13歳の少女のデビュー作品を書くことは、結構気が重くなるものであった。…森田昌子という少女の、歌手としての将来のことも考えたが…」(同)と。

 阿久悠は少女の歌手としての将来も考えたが、「スター誕生」という番組の未来も気になり、結局は作詞家としての本能を優先させている。少女の歌手としての将来を考えると、詞はどうなるのだろうか。「涙の連絡線」を連想させるものになるのだろうか。それは阿久悠の胸中にあり、この場では憶測を記さないが、作詞家としての本意は別の著書に見ることができる。そしてその文章に、「せんせい」という歌詞の端緒となった思いが秘められている。「ぼくは、安保更改の5月を過ぎたら、行き場のなくなった若者がみんな東京からいなくなってしまうだろうと思っていた。彼らの力だけで安保を阻止できるとはおもえなかったから、きっと彼らは、国会議事堂の見える東京には耐えられずに、旅に出ると思った」(「愛すべき名歌たち」阿久悠)彼は若者が東京からいなくなると言っている。多分、大袈裟な表現なのだろうが、これに近い考えはあったと思われる。


 この頃、戦後のベビーブーム期に生まれた人たちは青年の時期にあり、そしてこの戦後教育を受けた青年たちの考え方には、親の世代のそれと格段の差があった。この世代は後に堺屋太一によって「団塊の世代」と呼ばれるのだが、この世代が持つ特有のこの考え方からくる差を一つの象徴として捉え、作詞家の本能が感じたままに警鐘を鳴らしたものといえる。それは次の文章にも見られる。「時代の中で、今いちばん欠落し、渇望しているのは何だろうかと考え、それは、縦位置の人間関係の愛情だろうと思い、「せんせい」を書いた。…それらを無理矢理にでも歌い込まないと、二度と使われない言葉になるだろうと思えるほど、時代は渇き始め、人間は縦位置を無視し始め、何ともギクシャクした気分に慣れ始めていたのである」(「夢を食った男たち」阿久悠)さらに、「ぼくは、アンチ茶の間の、いくらか反社会的な作風でスタートし、老若男女も善男善女も縁がなかった。つっぱらかっていた。しかし、茶の間を意識し、いくらかは恥ずかしながらと照れて送り込んだのが、森昌子の「せんせい」である」(「歌謡曲の時代」阿久悠)と記す。

 阿久悠は縦位置の人間関係が希薄になりつつある社会を憂慮し、この「せんせい」を茶の間で聞いて欲しいと願ったのだろう。そして、その希薄さが若者を孤立させ、東京を去らせようとしているとの思いもあったのだろう。その薄さは各世代の団欒の場であった茶の間が消えつつある、という生活スタイルの変化にもよるのだが、敢えてその茶の間に向け、恥ずかしながらと「つっぱらかって」みせたのだろう。そして「みんな茶の間に集まれ、そしてこの歌を共に聴け」と、ハネッかえりの本領を発揮して、こう叫びたかったのかもしれない。


 また、この「せんせい」は彼女が所属したホリプロ堀威夫の思惑とも一致する。堀威夫舟木一夫で成功した学園三部作の構想をずっと持っており、また流行の周期は10年との思いもあって、森昌子のデビュー企画に考えあぐねていた時にこれを思い出し、男子に限る理由もなく、彼女でとの結論に至ったという。そして、阿久悠に相談すると彼も乗り気で、「ここまでしっかりした基本ポリシーがあるのだから妙なテレがいけない。いっそ三部作でいって仕上げは「中学三年生」で行きましょう」(「いつだって青春」堀威夫)と、強く進言されたという。実は、これは阿久悠の記述とは異なる。阿久悠は縦の関係であり、続きは「姉と妹」や「父と娘」を考えていた。しかし、「せんせい」を学園物と理解され、続編の「同級生」や「中学三年生」も既に決められていたという。この三部作は舟木一夫の成功もあり、堀威夫の考えを中心に進められたようである。


 池田文雄もまた、彼女のデビュー前に苦境に立たされる。「スター誕生」の審査は、スカウトするプロダクションが獲得の意志をプラカードを上げて示すという方法をとった。後に合格の判定基準を変えているが、当初、1本でもプラカードが上がれば合格となった。この会社名を書いたプラカードは森田昌子に13本が上がったという。この審査方法が週刊誌の好餌の対象となったのである。未成年者に「森田昌子、13歳です。一生懸命に歌いました。よろしくお願い致します」と言わせ、それに大人がプラカードで答えるというその風景が、人買い市場をイメージさせると週刊誌に記事にされ、非難されたのである。「ひどい話だよ。人買いだって書かれちゃったよ。決戦大会のスカウト・システムが、まるで奴隷市場の人身売買のようだって書きやがったのさ」と、プロデューサーの池田文雄は怒り、そして悩む。それは少女のデビューにも影を落とす。娘を金で売ったとも言われかねない両親はすんなり快諾できる筈もなかった。池田の森田家への日参は続くのである。


 「スター誕生」なる番組は時代の要請もあったろうが、実質はテレビ局と芸能プロとの確執が根本にあり、番組作りの主導権争いとも言えなくはない。テレビという入れ物を持つものと、歌手という素材を持つものの凌ぎあいに他ならない。入れ物を持つものは、それならばテレビ局が素材を持ってしまえ、と起こした行動の結果なのでもあった。したがって、この「スター誕生」からスターを作り出すことは、彼ら3人にとって直面する課題だったといえる。そして三者三様にありながら、彼女のデビュー曲をヒットさせるとの思いは一様に同じであった。

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