蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句5 風狂の人・惟然坊


 広瀬惟然は蕉門にありながらもなかなかの風狂の人である。「俳家奇人談」に書かれた惟然坊の項より。


 「惟然坊は、濃州の人、もと富裕なりしかども、後はなはだ貧し。かつて蕉門に遨遊して、俳諧の狂者と呼ばる。(風羅念仏を唱へ、風狂してあるく事、畸人伝にゆづりてここに略す)生涯破れ蓑笠に雨風を凌いで、往々紀行の吟あり。(中略)ある人今宵誰かが家に俳諧あり、いざさせ給へと勧めける。坊打ち笑ひ、われ日出でて起き、日入って休む。喫茶残飯まで、行住座臥みな俳諧なり。しかるをほかに俳諧せよ、とは何事ぞやと、答へたり。誠に人我とも忘れた隠者とは、この僧の事なるべし」(「俳家奇人談」岩波文庫


 この人我とも忘れた隠者は俳諧の狂者と呼ばれ、また許六によって俳諧の賊といわれ、世の中の人を迷わす大賊とまで呼ばれている。真偽の程は不明だが興味深い人物ではある。また、芥川龍之介の小説「枯野抄」にある芭蕉臨終の場面にも、医者の木節や支考と共に、治郎兵衞(老僕)、去來、丈草、乙州等に交じってその名がみえる。「法衣の袖をかきつくろつて、無愛想な頤をそらせてゐる、背の低い僧形は惟然坊で、これは色の淺鄢い、剛愎さうな支考と肩をならべて、木節の向うに坐つてゐた。あとは唯、何人かの弟子たちが皆息もしないやうに靜まり返つて、或は右、或は左と、師匠の床を圍みながら、限りない死別の名ごりを惜しんでゐる」という具合である。


 惟然坊の句を七つ
 梅の花あかいは赤いあかいはの
 名と利との二つ三つよつ早梅花仏
 水鳥やむかふの岸へつういつい
 彦山のはなはひこひこ小春かな
 時雨けり走り入りけり晴れにけり
 長いぞや曾根の松風寒いぞや
 おもたさの雪はらへどもはらへども


 続いて「俳家奇人談」の著者、武内玄玄一の句を三つ
 心にて見るがみるなり月の色
 初雁やあれ棹になり枷になり
 田の水の水になりけり秋の風


 そして、それを読んだ蜂太郎の余一の句を一つ
 静かなり一人静は影の中


 「もともと俳諧俳人は、原義的には世間通常の常識からはずれたところに存在したもので、すでにふるく清輔の『奥儀抄』には、俳諧は滑稽であり、滑稽の輩は道にあらずして道を成すものであり、またその俳諧は王道にあらずして妙義を述べたる歌であると規定されている。そのように考えれば、俳人それ自体がすでに奇人であり、また奇行の持ち主である条件を内に備えているといえるであろう」(同・解説)
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1)参考:「俳家奇人談」(岩波文庫)武内玄玄一著、雲英末雄校注
2)惟然坊:生年未詳。正徳元年(1711年)没。蕉門俳人。美濃関の人。広瀬氏。通称、源の丞。別号、素牛・鳥落人・湖南人・梅花仏。