蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

6-4解釈 赤とんぼ


 前回と重複するが、「赤とんぼ」は1921年(大正10年)三木露風32歳の時に、「北海道函館のトラピスト修道院で、赤とんぼのいる窓越しの風景を見て作った」との本人の記述がある。無論、詩の情景は幼少期のものであるから故郷兵庫県竜野のものであろう。

 この歌をどのように解釈し理解するかは人それぞれかもしれないが、母への思慕や故郷への思いであろうとの解説に、大筋で異を唱える方はおられないと思う。私も勿論、大意は殆ど変わらないのだが、私なりの解釈を記してみようと思う。


 この詩は4節の起承転結から成っている。1番、2番と3番の前半「十五で姐や嫁に行き」までは幼少期の記憶である。つまり1番で露風は姐やに背中におり、2番では弟が背負われ、露風は手を引かれて3人で桑の実を摘みに行っている。そして3番の前半は、姐やは15歳で嫁に行ってしまうのだから、露風が姐や世話を必要としなくなった、多分、尋常小学校に通う6、7歳頃のことであろう。露風4歳の時に両親は離婚し、弟は母に、露風は祖父母の家に引き取られている。露風は祖父母と姐やの4人で暮らしていたと思われる。父は放蕩で家に寄り付かなくなっていたらしい。つまりここまでは幼い頃の記憶を順々に書き綴っていると考えられる。
 そして、3番後半の「お里の便りも絶えはてた」は現在である。露風32歳の時である。多分祖父母は共に亡くなっており、父親との音信もなく、故郷との繋がりは全く無くなっていたのだろう。その郷愁の寂しさを赤とんぼのいる風景に託して慰めているのだろう。

 4番もまた現在である。13歳のとき俳句「赤とんぼとまってゐるよ竿の先」を記して、それが現在も続いていることを遠く函館の地で願ったのであろう。露風は縁遠くなった故郷の13歳頃の風景を思い出しながら、それが今もそうであり、これからもずっと続いていくことを願ってこの詩を書いたのだろう。勿論、縁遠くなった故郷に、記憶の薄い母への想いが重ねられているのは言うまでもない。

 両親の離婚は露風4歳の時であり、母の記憶は希薄と思われる。露風にとって母は姐やであり、姐やに母の面影を重ねての「十五で姐や嫁に行き」であろう。4歳の時の母との別れをこの姐やの嫁入りに重ねていると思われる。従って、この3番は露風の心象を考える時、非常に重要になる。前半に露風の気持ちが表現され、後半で4番の赤とんぼに繋ぐ文句「お里の便りも絶えはてた」が断定して説明されている。4番の「竿の先に止まっている赤とんぼ」は、流れの絶えることのない時間の象徴として描かれていると理解できる。


 これらによって、3番の「転」がなければこの詩は本来の意味をなさないことが解る。3番が抜けると、ただ単に故郷の記憶を綴ったものに過ぎず、露風の心情は見えてこない。露風はこの詩を作るに当って3番に苦心した筈である。4番の句はすでに13歳の時にできている。1番、2番とも過去の朧げな記憶の下に書ける。また記憶がなくても想像で書ける。記憶があるかどうかはこの作品を語る上で大した問題ではない。それを4番にどう繋ぐかが大事であり、それが繋がらなければ起承転結は完結しない。この3番の「転」がいかに重要かということである。4番の「結」は3番の「転」がなければ生きてこない。3番を省くことは、文学に興味を持ち始めた頃の句に郷愁を重ねた露風の苦心を無為にすると言わざるをえない。

 無論、言葉に敏感な時代であることは理解する。しかしこれは歴史の一端であり芸術の範疇である。その「転」を省くとは。教育とは何であるのか改めて考えざるを得ない。その立場にある人たちに、教育というもののを改めて考えて頂きたいと願わずにはいられない。
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 久し振りに小鳩くるみの「赤とんぼ」をしみじみと聴いた。また、両親の離婚を露風5歳の時とする本もある。