蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

2-5森昌子と潮来花嫁さん


 「潮来花嫁さん」は1960年(昭和35年)4月に発売された花村菊江のシングルで、作詞は柴田よしかず、 作曲は水野富士夫による。


 1960年はあの安保の年である。阿久悠が「東京から若者がいなくなる」と嘆いたのは70年安保の時であり、高野悦子の自殺はその前年の安保反対運動が盛んな頃だったのだが、この60年にも一人の女子大生の死が衝撃だった。当時の東大生、樺美智子がその人である。
 日米安保条約はその審議が難航する中、5月19日に当時の政府自民党が緊急上程し、20日未明、衆議院本会議で強行採決された。その余波はその後も続き、6月15日には全国各地でのデモ参加者が580万人に及び、特に東京では全学連主流派が国会に突入して大騒乱となった。その時、警官隊と衝突したデモ隊の一人、東大生の樺美智子(22)が死亡する。しかし、日米安保条約は33万人が徹夜で国会を包囲する中、6月19日午前零時を期して自然承認となるのである。 6月23日には批准書が交換され、この条約は発効した。

 そして数ヵ月後、さらにもう一つの衝撃が走る。それが浅沼社会党委員長刺殺 事件である。浅沼稲次郎安保闘争の高まる3月、社会党委員長に就任し、独特のガラガラ声で全国各地を遊説して闘争の先頭に立った。しかし前述の通り、安保が自然承認となった後に事件は起こる。10月12日の、翌月に迫った総選挙のための日比谷公会堂での3党首立会い演説会の場で、浅沼稲次郎は17歳の右翼少年に刺殺されてしまうのである。聴衆の面前でのこのテロの瞬間はそのままテレビを通じて全国に流れ、社会を震撼させることとなる。

 衝撃的な事件が続いた年ではあるが、この頃は高度成長へのテイクオフの時期であり、活気に溢れた時期でもあった。日本経済が飛躍的に成長を遂げたのは、1955年から1973年までの18年間とされ、この時期は今なお、日本経済を支える基盤となっている。戦後の混乱が治まり発展に向かって走り出した頃で、活気ばかりでなく夢ある時代でもあった。この頃流行った曲にはこの「潮来花嫁さん」(花村菊江)の他にも、第2回(1960年度)レコード大賞受賞曲「誰よりも君を愛す」(松尾和子和田弘とマヒナスターズ)や「月の法善寺横丁」(藤島恒夫)、「アカシアの雨が止む時」(西田佐知子)、「哀愁波止場」(美空ひばり)、「ズンドコ節(小林旭)、「潮来笠」(橋幸夫)、「霧笛が俺を呼んでいる」(赤木圭一郎)、「達者でナ」(三橋美智也)、「ステキなタイミング」(坂本九)、「有難や節」(守屋浩)等がある。


 そんな年に流行った曲をデビュー3年目、16歳の森昌子がその正月公演で歌う。若き日の森昌子は、その若さに似つかわしくないほどの歌の上手さと、感情移入というもう一つの特筆すべき才能を見せるが、それをこの「潮来花嫁さん」でも存分に披露してみせる。この歌はその歌詞を見れば解る通り悲しい歌ではない。嫁ぐ18歳の女性に対する賛歌である。よしきりを持ち出すまでもなく家族や近しい人にとっては別れであり、その涙はあろうが、これとて悲しみよりむしろ祝福に近い。幸せに向かっての別れなのである。しかし、16歳の森昌子はここに得意とする哀感持ち込む。「スター誕生」での「涙の連絡線」の延長線上にある、あの「せつせつ」とした情感である。この哀感に私はふと「野菊の墓」の民子を思い浮かべた。潮来と「野菊の墓」の舞台はかなり近くではあるが、また作詞家に「野菊の墓」の意識があったのかどうかもあるが、それらに関係なく私は政夫と民子の物語を連想した。あの民子のもう一つの姿としての「潮来花嫁さん」である。


 「野菊の墓」は、伊藤左千夫が始めて書いた小説で1906年明治39年)1月、雑誌「ホトトギス」に発表された。15歳の少年、斎藤政夫と2歳年上の従姉、民子との純愛、悲恋の物語で、夏目漱石が絶賛したという作品である。そして「この作品の舞台は千葉県松戸市矢切付近で、同地区には伊藤左千夫の門人である土屋文明の筆になる野菊の墓文学碑がある。また、矢切の渡しは政夫と民子の最後の別れの場となった所であり、左千夫の出身地である千葉県山武市伊藤左千夫記念公園には、政夫と民子の銅像がある」(ウィキペデイア)という。
政夫の家は江戸川近くで醸造業を営むその地の旧家であったが、政夫の母が病気になったため、その看護や家の手伝いのできる女手が必要だった。そのために従姉の民子がその家に移ってくる。二人は大の仲良しでいつも二人で姉弟のように遊んでいた、とその様子が書かれているが、本文よりこの小説の重要な場面、二人で綿摘みに行く所と民子の最後が記された箇所を抜粋して次に掲げる。


 陰暦9月13日に、政夫と民子は二人で、山畑の綿を取ってくることになった。畑に向かう途中、二人は野菊を見付ける。


「僕は元から野菊が大好き。民さんも野菊が好き。」
「わたし、野菊の生まれ変わりよ。野菊の花を見ると、身ぶりが出るほど可愛いと思うの。どうしてこんなかと自分でも思うぐらい。」
「民さんはそんなに野菊が好き。道理でどうやら民さんは野菊のような人だ。」
「わたし野菊のようだって、どうしてですか。」
「さあ、どうしてということはないけれど、民さんは何となく野菊のようなふうだからさあ。」「それで政夫さんが野菊が好きだって。」
「僕、大好きさ。」


「私が死ぬのは本望です。死ねばそれでよいのです。」と言い、民子はそれ切り口をきかず、左の手を胸に載せ、その夜の明け方に息を引き取ったという。民子の左の手には、赤い絹の布切に包んだ政夫の写真と政夫からもらった手紙が握られていた。その手紙を読み、政夫の母、民子の家族がみな声を立てて泣いた。政夫と民子の愛の深さを知り、無理に嫁にやったことを後悔し、詫びた。(「野菊の墓伊藤左千夫


 彼女自身は後にその著書「明日へ」で「コブシは苦手」と書いているが、今回デビュー三部作を幾度となく聴いて、思った以上に声を揺らしている箇所が多いことに改めて気づいた。そしてこの「潮来花嫁さん」もまた多い。この16歳の歌手の「潮来花嫁さん」は色々な想像を駆り立てて心に残るのだが、その一つに、13歳の時に会場を震撼とさせた情感に代えて示した「せつせつ」とした哀感がある。このせつせつ感が美空ひばりの「森昌子の歌には心がある」という言葉に繋がるのかもしれない。才能ある人はまたその才能を見る眼も確かで、その慧眼には恐れ入るばかりである。