蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(17)

 輪の外に巍然と立つ男は詩人の金山佐知夫である。その姿は人込みに馴染まない。一人異質である。彼は妻の貞子との約束で出かけた浅草で、浅草寺に向かう途中に見かけた演歌を歌う若い歌手の幟の文字に、あることを思い出していた。それは以前に、出版記念パーティの会場で初めて会った男のことだった。そしてその男の口から出た名前が幟に記された文字だった。芸能プロの社長と名乗ったその男は、「是非、先生に歌詞を書いて頂きたいのです」と執拗だった。男は何度断わられても諦めず、ただ周囲の眼だけは気にしたのか、最後に「改めてお宅に伺わせてください」と丁寧な言葉を残し、漸くその場を離れたのだった。

 その男はその時の言葉の通り、数日後には自宅を訪ねて来て、「せんだっては大変失礼致しました。改めてご挨拶に伺いました。モリプロの森正太郎です」と型通りの挨拶をそこそこに本題に入った。
「先生に演歌を救って欲しいのです。あの娘を演歌の星にしてやっては頂けませんか。あの娘には素質があります。資格があります」
「どんな頼まれても無理なものは無理だよ、君」
「歌謡界のために、日本の演歌のために御協力頂けませんか」
「大袈裟なことを言う人だな、君は。幾ら懸命に書いたって世間に認められなければ意味ないだろう。そんなことを私は何度も経験しているんだよ」
「それから後は私の仕事です。先生には詩を書いて頂くだけでいいのです。書いて頂ければ必ず世間に認めさせます。ですから是非お願いします。あの娘は必ず演歌界を背負う歌手になります」
「君は私の世間の評判を知らないのか。人心無縁の孤高の詩人だよ。そんな男の書いた演歌を世間が受け入れるとでも思っているのか」
「それは世間というより一部の人の評価だと思います。私にはそうは思えません。先生の詩に人心無縁は感じません。忘れられた日本人の心を感じます。孤立無援の日本のまほろばを感じます。私はいつの頃から日本はこんな風になってしまったんだろうと思っているのです」
「…」
 人心無縁の孤高の詩人とはある書評家が新聞に書いた言葉で、その後これを引用して金山を表わす文が幾つか見られた。この書評家の人心無縁とは現在の人々に眼を向けず過去の人への思い入れが強いという意味で、次のように記されていた。「金山は生身の人間から眼を背け、過去の人ばかりを掘り起こしている。そこに今を生きる人たちの喜びや悲しみは感じられない。あるのは記録と同じ二次元の世界で、未来や温もりを感じる空間ではない。だから彼は孤高なのだ」と。

「一度会ってやってくれませんか。そして歌を聴いてやっては貰えませんか。それで先生が駄目だと言うなら私は諦めます。どうかお願いします」と、森正太郎は土下座して懇願した。
「止めたまえ、君。そんなことをしても無駄だ。世間に疎い私が演歌など書ける筈がない。そんな簡単な世界ではないだろう。それは君が一番良く知ってる筈だ。それに、その手の人たちが業界には沢山いるじゃないか。」

 森が帰った後、金山は妻に零した。
「私に演歌を書けって言うんだ。困ったもんだよ。私が世事に疎いことを知らんとみえる。見当違いにも程がある」
「あの方がモリプロの社長さん。そんなに仰るのなら書いて差し上げればいいのに。どうせ売れないのには慣れているんだから」
「馬鹿なことを言うな。売れる、売れないの問題ではない。見当違いの詩で笑われたくないと言ってるんだ」
「あら、あなた、笑われるのが怖いの。そんなに立派な先生になられたの」
「当たり前だ。それなりの地位にはいる」
「それが本物なら、歌謡曲ひとつの失敗くらい、どうってことないのではないかしら」
「屁理屈を言うな。とにかく書かん」
「はいはい、分りました」
 あの時、夫が頼まれた歌詞はこの人のためなのだろう。熱心に願った社長の口から出た歌手の名はこの一条つぐみなのだろうと、貞子は思った。そして彼女は、つぐみのデビュー以来のレコードを全てを買い求めた。その間、金山は輪の外で神経質な表情を崩さず二人を見つめて立っていた。

 二人が去った後、その婦人とつぐみのやり取りに気付いた壬生がつぐみに近づいて、「誰、今の人」と訊いた。
「さあ、どなたかは知りませんけど、全部1枚ずつ買ってくれました。ああ、そうそう、それからレコードは何枚出しているのかとか、所属はどこかとか訊かれました。それと社長を森さんと呼んでいました。社長の知り合いのようでしたけど」
「社長の知り合い…」壬生はその男をどこかで見た記憶があったがどうしても思い出せずに、浅草寺の方向に小さくなる後姿をじっと見詰めていた。