蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(20)

 翌日つぐみの予定はなかった。スケジュールの確認と調整のため会社に出た壬生を正太郎が待っていた。
「壬生さん、ちょっと」

 珍しく机に向かう壬生に正太郎が声をかける。壬生は正太郎を追って部屋を出た。事務所のあるビルの地下に喫茶店がある。
「一条はどうですか。元気にしてますか」席に着く間もなく正太郎は口を開く。
「はい、元気にやってます」
「そうですか」

 そこは以前は別の店として使われていたのだろう、重厚な造りで喫茶店らしからぬソファーやテーブルが置かれ、壁には年月を重ねて蒼然とした絵が掛けられていた。それが本物か否かに関わりなく、時を経て得た風格に時折侵し難い存在感を持つものがある。ドガのこの踊り子の絵はオルセー美術館にある筈だから模作品だろうが、薄汚れた壁に溶けて周囲を睥睨する様は偽物の言葉を忘れさせた。
「昨日浅草でのキャンペーンである人を見かけました。その時は思い出せなかったのですが、多分、詩人の金山左知夫だと思います。その奥方らしき人がつぐみのレコード買われたのですが、その時つぐみに話しかけて社長を森さんと呼んだそうです。社長のお知り合いですか」
「金山さん、ああそうですか。レコード買ってくれたのですか。知り合いと言う程ではありませんが、壬生さんだから話しておきます。他言は無用です。実は金山さんに一条の歌をお願いしています」
「歌詞をですか、演歌の。あの人は硬い詩しか書かない人ではなかったのですか。それに変人だって聞きますけど」
「ええ、そうした評判に興味があって、面白いかなと思って。実は私には一条の母親との約束があって、今日はそれを壬生さんに話しておきたいと思って呼んだのです」

 ウェイトレスが大袈裟な身振りでコーヒーカップを置くと、それを諌めるかのように濡れたコップはテーブルを滑る。暫くその器の琥珀の波を眺めていた正太郎はその器を押えて治まるのを待った。

「一条をデビューさせる時にお母さんには酷く反対されて、その時にお母さんと約束したのです。壬生さんもご存知だと思うけど、一条がスカウトツアーに出たのは高校1年の時でした。あの時、司会を頼んでいた雲井君が、宇都宮に凄い子がいるから森さん来なきゃ駄目だって言ってきて、凄いと言われた子は何人も見て来ていて、その度に裏切られて来たけれど、それでも行かなかったことを後悔するのは嫌だと思って見に行きました。そこで一条を見て、ああこの子だと確信したのです。だけどお母さんは宇都宮で優勝した位で歌手として認められる筈はないと言われ、デビューさせることより辞めた後にどうやって暮していくかを心配されて、それならいっそデビューさせない方が良いという考えでした。

 確かに芸能界なんてところは水物だから、私は一条の才能は確かだと思ったけれど、世間の評価だから私にはどうすることもできない。それで困って三つの約束をしてデビューさせました。それは、高校は必ず卒業させること、5年間はヒットするしないに関わらずレコードを出し続けること、そして5年後も芽が出ず辞める時には、お母さんに納得して貰える再就職先を私が世話するということの三つなのですが、ただお母さんは3年やって駄目なものは5年やっても駄目でしょうから、5年ではなく3年にして欲しいと言われた。今年がその3年目なのです。この約束を一条が知っているのかどうかは知らないのですが、一条をお願いしている壬生さんには話しておいたほうが良いだろうと思ってね」そう言うと正太郎は静かにコーヒーを取った。
「そうですか」

 正太郎がコーヒーを啜る間、天井を仰いだ壬生の眼に偶然入ったドガの踊り子が腕を震わせて舞ったように見えた。
「そんなわけですから、一条に変わったことがあったら知らせてくれませんか」
「分りました。今は特に変わったことはありませんが、気にしておきます。これはつぐみには言わないほうが良いのですね」
「ええ、そうしてください。私も本音が出るといけないので、一条には気軽に話しかけないようにしています。彼女が負担を感じてしまったら元も子もありませんし」
「すみません、気を遣って頂いて」
「いや、これは私の仕事ですから。しかし壬生さん、一条のような歌手が大成しないとしたら、日本の歌謡界とは一体何なのだろうとつくづく思う。これは壬生さんだから言うけど、そんな世界はくそくらえだ。私は5年といわず、10年でも20年でも一条の歌がヒットするまでレコードを出し続けようと思うことがあります。ただ、私も多くの歌手を抱えていますから、自分の気持ちだけで一条と心中する訳にはいかないけど…。またお母さんに会ってお願いします。一条の気持ちに変わりがなければお母さんにも分って貰えるでしょう」

「宜しくお願いします。私も今辞められたら悔いが残ります。それと、変わった様子はないのですが、時々眼を腫らしている時はあります。それは多分彼氏のことが原因だと思いますが」
「彼氏…、恋人がいるのですか」
「多分いると思います。外務省の人で今は外国にいる筈です。アラブのどこかだと思います。いつだったか、テルアビブ空港のことを訊いてきたことがありましたから」
「そうですか、若いからそれはそれで結構なことですが、アラブとはまた大変な所ですね」
「そうなんです。つぐみもそれを気にしているようなのです。男と女のことなので、私も余り口出しできないし…。ところで、その詩人は脈がありそうなのですか」
「これからですけどね、私も簡単に諦めるつもりはありません。別の意味でも注目されれば一つのきっかけになるだろうし…。金山さんは堅物だから一条には合っていると思う。一条が一途に歌う程に金山さんの詞に味が出るだろう。あっさり断られているけど、レコードを買ったとなれば少しは興味を持ったのかもしれない。近々伺うつもりですから、知らん振りして一条のレコードを持って行きます」と言ってまた静かにカップを握った。