蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(1)

1章
 窓の外で湿気を失った木の梁が収縮する時の乾いた音がした。光を求める昆虫が窓ガラスに当る音だった。闇の世界から見れば、僅かな白い光でも類まれなる危険の予知能力を忘れさせるほど魅力的に写るのだろう。二元進化の一方の極にいるといわれる昆虫の感覚は、存在の基本である生命の維持よりも衝動のままの行動を優先させるのだろう。その突然の音につぐみは驚いた。イヤホンから聴こえていた音楽はいつの間にか消え、乾いた音が圧迫された内耳に鋭く響いて来たのだった。

 部屋の明かりは窓の外を少し明るくして、薄汚れたブロック塀をぼんやりと浮かび上がらせる。その塀の外側を酔人が鼻歌を鳴らして過ぎていく。少し先の朧に光る外灯がふらつく人を誘って瞬いていた。

 漆黒の闇に向かって、「光あれ」と叫んだ神の目に映った最初の光は、この外灯のように朧なものだったろう。しかしその生まれたての朧には酔人を誘う外灯とは違い確かな未来があった。それは森羅万象、生きとし生けるものを彩り育むことを定められていたとはいえ、永劫を約束された万能の存在であったのだから。 
 神の声に反応した光は言うに及ばず、外灯の弱々しい光でさえ今のつぐみには縁遠いものだった。デビュー当時は頻繁ではないにしろ月に何度かテレビやラジオの出演依頼があったが、3年目の今、ドサまわりと呼ばれる仕事がその殆どになっていた。それがつまらないわけではない。いや毎日が楽しいと思うことのほうが多い。しかしこうした一人の夜に、ふと、こんな日がずっと続くのかと思うと不安が募り、疼く胸に耐えねばならなかった。

 窓を覗く暗い街並みのあちこちに点在する明りは、暗闇に潜む得体の知れない化け物の眼のようで、或る所は赤くそして或る所は青く点滅を繰り返した。そしてそれは深海で光を見せて獲物を誘うあの怪魚の甘い香りを漂わせた罠のようでもあった。しかし、輝く未来はその危うい誘いに乗らなければたどりつけない闇の彼方にあった。

 この縁遠い存在である弱々しい光につぐみは記憶があった。しかしどこで見たのかはどうしても思い出せず、いつしか、それは母の胎内で感じるというあの微かな光なのかもしれないと思うようになっていた。それは幼い時に家族で楽しんだ線香花火が最後に煌いて落ちる寸前のあの閃光ではなく、落ちたその小さな火の玉が地面で放つ微かな赤みに似ていた。

 つぐみはそんなことを考えながらぼんやりと外を眺めていて、イヤホンに流れる「旅立つ彼」が終わっていることに気付かなかった。ふと我に返り、そっと巻き戻しボタンを押し、テープが巻き戻される間プレーヤーを掌に包んでその音を消した。音が、不用意な音が何物かを呼び寄せる気がして、ボタンの音にさえ注意を払った。明日のステージで歌う曲の一つで大体は覚えていたが、不安を消すためには何度でも聴く必要があった。

 つぐみは譜面を見ない。耳で覚える。聴いた音を全て覚える。それは父の歌を聴いて覚えた幼い頃からの方法で今も同じだった。何度聴いても不安が消えることはないが、聴いている間は無心になれた。その不安を消すためにつぐみは再びテープの音に集中した。

 放火事件に関わった弟が少年院送りになるとの知らせを受けたばかりで、その悩みもあった。達彦は不慣れな外国に独りでいる。弟のことを知らせるわけにはいかない。それはつぐみと母の問題だった。疼きそしてその後の苛立ちを忘れようと、イヤホンのメロディに合わせて口ずさむつぐみの眼に、いつしか涙が溢れていた。その眼に、闇に溶けていく戸外の点滅は形を歪ませて写っていた。