蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(27)

 
 浅草寺ほおずき市が開かれる頃に、森正太郎は再び金山の自宅を訪ねることにしていた。それを知って壬生は、
「私も一緒に行かせてください。『笹しげ』の羊羹を用意します。雑誌で金山さんがその羊羹のことを書いているのを読んだことがあるのです」と同行を申し出た。
「あら、珍しい。『笹しげ』の羊羹」
 挨拶早々に差し出された包で、貞子はその中身が分かったようだ。
「ええ、好物だと伺ったものでから」
「わざわざ出かけられたのですか。済みません、面倒をおかけしました」と彼女は頭を下げた。
「私も先生の書いたものを読ませていただきましたので」と、壬生も頭を下げる。
 その文章は或る婦人雑誌に書かれたエッセイで、概ね次のような内容だった。
『その味嫋やかなれど、私に力をくれる。その口当たりはいささか厳つくはあるが、私に生きている証を与えてくれる。私は遠い豊かな世界にいるような気分になるのだ。ひと切れの羊羹がかようにも人を豊かにするものだろうか。私は己の生き様さえ思い浮かべてしまうのだ。
 その店は最近、繁盛しているらしく手に入れるのが難しくなったが、それでもまた何時かは巡り会えるだろうと思うと、それだけで心が弾むのである。私にそんな思いを抱かせてくれるもの、それはそう多くあるものではない』
 最近、吉祥寺の『笹しげ』には暗いうちから客が並び、開店と同時に羊羹は売り切れてしまうという。小さな店で、年配の夫婦二人が手作りする品であるから数も多くはないが、口伝てに噂が広がり、その品を求める人たちが毎日並んで待っているのだという。壬生もその日、暗いうちから並んで買い求めたものだった。


 通された部屋で、正太郎はつぐみのレコード5枚をテーブルに並べてから口を開いた。
「これまでの一条のレコードです。一度お聴きいただけませんか」
 金山は一瞥しただけで応えず、腕組みして眼を閉じると、その後その姿勢を崩すことはなかった。取り付くしまもなくそのあとしばらく二人は静寂の中にいた。金山に声をかけられない正太郎は「悲しみの町」を手にとって眺めている。そこには着物姿のつぐみが祈るような姿で写っていた。その時、ふと正太郎は、つぐみのレコードをじっくり眺めるのは初めてであることに気付いた。そうしてジャケットを眺めていると、大人びた容貌の中に宇都宮で見た女子高生の面影が浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。その面影が彼にあの時の感動を思い出させているようだった。
 その横顔に壬生はその心中を思いはかった。
 金山は身じろぎもせず、目は閉じたままだった。細面の頬骨の高いその顔立ちは、眼を閉じると更にその高さが目立ち、神経質さに加えて頑固者の一徹さを滲ませていた。
「あなた、『笹しげ』の羊羹頂きました。久し振りにどうぞ。ちゃんとお礼も言ってくださいね」
 お茶を持って現れた貞子の、羊羹を添えて並べながら言う言葉がひどく大きく感じられた。
「あら、一条さんのレコード。この間、浅草でお見かけして何枚か買わせていただきました」
 彼女がそう言ってレコードを手にすると、金山は貞子を避けるように腰を上げて窓際に立った。
「そうでしたか。ありがとうございます。もっと早くお持ちすれば良かったのですが」と正太郎が窓際の金山に目をやりながら、
「今、新曲のキャンペーンで、あちこち回わらせていただいています。浅草は土地柄か、一条のファンの方が多く集まってくれる場所なものですから、もう何度か…」といいかけて言葉に詰まり、その目を傍の壬生に移すと、
「ええ、今度で3回目でした」と、間を置かず壬生が繋いだ。
「そうですか。偶然でもお会い出来てよかったわ。さあ、お茶をどうぞ。頂いたものでなんですが、主人の好物なものですから、羊羹も早速切らせたいただきました」
 テーブルの横に膝まづいたまま、貞子は何度かレコードを取り替えては眺めていた。

 その時に突然、窓越しに庭を眺めていた金山の低い声がした。
「彼女には寒椿がいい。そう、良く似合う」
「…」
 正太郎は、「寒椿…」と繰り返して金山に目をやった。
程よく手入れされた小さな庭の隅に、小さな寒椿の樹が一本立っていた。冬に花をつける樹は、つやつやとした色濃い緑の葉を塀の翳りの中に光らせていた。
「私はこの花が好きで、毎年咲く日を楽しみにしている。この小さな樹が時には狂ったように花をつけることがある。その姿に私は、私に欠けてしまった生命の息吹を思う。私はいつもその時を待っているのかもしれない。生命の感動が迸るその日を。こんな小さな樹でさえ、年に一度は命を滾らせて輝く日があることが私には羨ましいのかもしれない」
 金山は虚ろな目を窓外に向けたまま独り言のように呟いた。