蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代26、豊川稲荷


 高三トリオが高校卒業を記念して植樹を行った豊川稲荷は、本院ではなく赤坂の東京別院であったが、新撰東京名所図会の東京別院の姿を眺めながら、再びその豊川稲荷についてである。周りが大きく変わった中にあって、その山門の形状がほとんど昔のままであるからだろうか、初めて見たこの絵が妙に懐かしく思えるのだ。


豊川稲荷
 正式名:円福山 豊川閣 妙厳寺
 宗 派:曹洞宗
 場 所:愛知県豊川市
 境内に祀られる鎮守の稲荷、吒枳尼天(妙厳寺では「吒枳尼真天」と呼称)が有名なため、一般に「豊川稲荷」として知られる。この豊川稲荷は本来曹洞宗の寺社であって神社ではないものの、商売繁盛の神として知られ、境内には鳥居が立っている。妙厳寺の本尊は千手観音である。


豊川稲荷東京別院
 江戸時代に、立身出世や盗難除けの神として信仰されるようになった吒枳尼天を祀り、江戸参詣所として大岡越前守屋敷内に創建された。これが現在の東京別院である。これは豊川稲荷唯一の直轄別院つまりは飛び地境内である。


東京別院説明板


豊川吒枳尼天堂(新撰東京名所図会)

 絵の下にはこう書かれている。豊川吒枳尼天堂 赤坂見附に近く、どちらを見てもビルやホテルの高層建築が取囲み、町の様相はまったく変わってしまったが、豊川稲荷で知られる堂宇や規模形状は、ほとんどこの絵のままである。神社の西側一帯は、赤坂御所の広い御用地である。 

 大変難しい字を書いてあるが、赤坂の豊川稲荷で、当時は隣にあま酒屋、菓子やみやげ物の店が並んで、ちょっと華やかな門前町のたたずまいであったようである。しかし、ずっと昔はこのあたりは随分淋しい所で、江戸から歩いてきた牛が、ここまでくると、啼いて歩きしぶったといい、今でも牛啼き坂の通称が残っている。
 神社のすぐ西には表町御殿正門があり、その少し先には秩父宮邸、東宮御所と続く特別区域で、今では東京の中心地帯である。(「明治東京名所図会」講談社1989年)

現在の写真(2012年8月12日撮影)


 山門は赤坂通りの大きな道路標識に隠れてしまった。


 さらに、当日の記念樹も写真におさめてきたのでご覧ください。

 木蓮、泰山木はしっかりと葉をつけている。山茶花は大きくなる樹ではないのだろう、それに比べると小ぶりである。七福神が境内に分散して建てられていた。記念樹の近くには寿老尊がおわした。