蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(23)


「達彦さん、いつまでいられるの」
 通行する人の中には足を止めて店先の商品を眺める人ばかりではなく、買い求めた物をその場でほお張る人もいた。そうした人たちの大きな塊が、流れの迂回を余儀なくさせる。その日の仲見世通りには、地方からの団体客らしい婦人の姿や外国の人たちが目立っていた。
「明日には戻らなければならない。もう少し休みが取れるはずだったけど…」
 達彦がそう言いながら、偶然目のあった店先に立つ外国人に軽く会釈すると、男も少し微笑んで手を上げる。
「しょうがないわね、まだ新米なんだから」
 つぐみは、「外務省情報調査局のおそらくは特別対策室」と言った国男の言葉と表情を思い出していたがそれには触れず、「でしょう、違う」と念を押すように続けて少し前に出る。少し長くいられそうだってと言いたかったが、それは口にしてはいけない言葉だった。そして、そう思うだけで潤む目を達彦に見られてはいけないと思った。
 そう言われれば確かにそうだと達彦は思う。情報調査局特別対策室の一員として既に動いていたとはいえ、達彦はモスクワでの研修を終えてカイロの大使館に配属されたばかりの外交官補の一人に過ぎない。カイロ大学に通うのは学期の都合上、9月からと少し先のことになるが、表向きは語学研修中の外交官の卵に過ぎなかった。


 外務省に情報調査局は確かに存在した。しかし、その組織図に特別対策室は載ってはいなかった。1950年代の初頭、時の官房長官だった民自党の福島織方は、アメリカのCIAをモデルとした情報機関の構想をもっていて、その始めとして官房長官の下に小さな組織をつくるが、彼が目指した情報庁への格上げは世論の激しい批判を浴びてならなかった。
 諜報活動、スパイというどこか陰湿めいた言葉や行為が、軍国主義から民主主義へと移った時の趨勢に合わなかった。というよりもそれは、性悪説よりも性善説に執着する日本人の心情に合わなかったのかもしれない。それ故の選択であったことは、後に東京がスパイ天国と言われるようになることからも容易に想像がつく。性善であっても終生の善が保証されるわけもなく、また情報によって国家や組織が存亡の狭間を行き来したことは、歴史や過去の事例によって明らかなのに、それでもなお、復興に目覚めた当時の日本人の感情がそれを許さなかった。
 今の日本では、こうした組織を内閣や外務省の他にもそれぞれが持っている。それは法務省公安調査庁警察庁公安警察防衛庁の情報本部などであったが、それぞれが独自であるがために重複し、一貫性に欠け、効率的とは言えなかった。しかもその殆どは国内を範囲としていた。
 特別対策室の特筆すべきはその行動エリアを海外に置いた点だった。その任務は逃亡した重大犯罪者の所在の確認と身柄の拘束、本国送還だったが、これを見れば、標的が過激派や当時頻発したハイジャック犯であることは一目瞭然だった。ただ、他国での身柄拘束や送還は、その国の警察権や裁判権との兼ね合いから難問も多いが、室長の福島は「その後は任せろ」とハッパをかけていた。外交問題になってもクリアーしてみせると鼻息も荒かった。
 達彦の直属の上司であるこの福島方正は元官房長官福島織方の息子だった。


 情報機関の他にもう一つ急がれたのが銃器使用部隊の創設で、日本は、銃器使用事件やハイジャックなど、従来の装備では対処できない重大な犯罪が多発する時代に変わっていたのである。その対応策を検討していた政府に、1972年、ミュンヘンオリンピックで起きた選手村襲撃事件はその実行を急がせる。正規の部隊編成は翌77年になるが、警察庁は既にそうした部隊の設立を各都道府県警察に通達し、74年にはその前身となる機動隊の部隊を白書で明らかにしていた。その白書には次のように書かれている。
 「銃器使用事件をはじめ、ハイジャック事件など高度な逮捕制圧技術を要する事案の発生に備えて、全国の機動隊には、耐弾・耐爆性能を有する装備資器材をもつ特殊部隊が編成され、実戦的な訓練を実施している」
 これにより警察庁が、当時の機動隊特殊部隊の能力を超える新たな特殊部隊編成の準備をしていることが知れたのである。そしてそれは3年後の77年に、特殊急襲部隊、通称SATとして新設される。


 外務省の特別対策室の存在が噂になったのは、警視庁と大阪府警にその特殊急襲部隊が設けられた1977年の頃で、同時期に国も何らかの組織を作るのではと予想されていたからだった。しかし政府はその組織を公表しなかった。というより、そのような組織の存在を否定したのである。それ以前に、達彦ら若い外交官の卵を中心に、そうした組織が動き出していたことを世間は知らない。知っていたのは官房長官中司民輔の口癖、「機関に車なく、機構は機能していない」だけだった。


「私の今の歌、知ってる?」
 達彦の横に戻ってつぐみは俯いたまま言った。
「知ってるさ。この間、レコードを送ってくれた人がいる」
「へえー、そう。達彦さん、演歌を聴くこともあるんだ」と、今度は不思議そうに達彦に目を向けた。
「困ったお嬢さんだ」
「だって、昔、あの人が言ったじゃない。クラシックしか聴かないって」
「ああ、茂木。あれは彼のでまかせだよ」
「でも達彦さんはクラシックの方が似合うわね」
「そんなことはないだろう」
 達彦がそっけなく言うと、「ふうーん」と鼻息を漏らしてしばらく沈黙していたつぐみは、
「ねえ、インド音楽も聴くの」と言って、今度はひとり可笑しそうに口元を押えた。
「どうしたんだい、急に」
「ひ…み…つ」
「秘密を持つとは、つぐみちゃんも大人になった」
 達彦がそう言ってからかうと、
「あの時のこと思い出したの。達彦さんがインドから戻った髪ぼうぼうで髭モジャモジャの頃」と言って、また一人で笑った。