蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(13)

 その夜、アパートに着いてからも、はにかんだような少女の顔が浮かんで来てなかなか寝つけなかった。昨年の夏、純一と二人で山野を歩いた後に偶然出会った少女と、その顔は重ならない。無心に歌う少女は、後で中学生だと知ったが、足を止めて盗み聴いても、何の後ろめたさも感じないほど幼く、それが二人を大胆にさせた。予定より早く戻れば「行程表がいい加減なのよ」と、叔母に揶揄されるのは明らかで、時間を潰す場所がなければ遠回りして戻ろうと話していた二人に、少女の姿はそれに代わる格好の存在として写った。その二人の考えは同じだったらしく、足を止め、気配を消してお互いを確認するのもまた同じだった。だが、彼らは運が悪い。悪い星の下に生まれている。再び少女に目をやると、彼女は既に気付いていて、「あっ」と、小さく叫んで走り出そうとするところだった。
「ちょっと待って、怪しい者じゃないから」

 咄嗟に、純一は近寄りながら声をかける。怪しい者じゃないなどと言う者ほど怪しくなかったためしがなく、常に何等かの思惑を隠しているものである。
「何か用ですか」

 明らかに逃げる方向を意識した格好で振り返った少女は、その上、警戒心も露わにして素っ気もなかった。
「いや、歌が上手いからさ。聴かせてもらったよ。もう少し聴かせてくれないかな」
「…」
「僕は音痴だからよく叱られたよ、音楽の先生に。君ぐらいに歌えたら良かったけど」
「私、帰ります」
「ああ、待って、ちょっとだけでいいから。ああ、喉が渇いた、どこかに水はないだろうか。…僕たち今から、ほら、あそこに見えるだろう教会が、あそこに帰るところだから。時間があるから少し休憩するけど、君もよかったらもう少しここにいたら。一緒に歌おうよ」

 軟弱な軟派師のような純一の言葉は、肝心な場面での下手な役者の精一杯の演技ではあったが、その一生懸命さは滑稽でしかなかった。
「私、牧師さんなら知ってますけど…。ええ、お水、持ってきます」
「頼むよ。あの牧師さんはこの人の叔父さんだよ」といって達彦を指差す。

 不逞の輩は何等かの思惑を隠すために、純真な少女にさえ身元保証の念を押さずにはいられない。そして、少女が持って戻った水を、大して喉も渇いていないだろうに大仰な身振りで飲み、ああ生き返ったと、またまた大袈裟な台詞を吐いて、「君は療養所の人かな、誰と来てるの、ご家族が悪いのかな」と、今度は野暮な軟派師の心無い親切心を見せて少女を覗き込んだりするのだった。
「…」
「さっきの歌、一緒に歌おうよ。お兄さんたちに教えてよ」
「何でですか」

 少女は相変わらず素っ気ない。その後も何度かこの「何でですか」を繰り返し、純一を撥ねつけ続けた。彼は新米の手配師より愛想は良かったものの、ナンパの達人には程遠く、揉み手を忘れた遣り手婆のようでいつまでたっても埒が明きそうもなかった。
「この本貸してあげるから読んでみたら」

 二人から少し離れた所に切り株があり、達彦はそこにザックを置いて一冊の赤い本を取り出して見せた。
「何の本ですか」

 疑似餌に惑わされたか、少女は近づいてくる。いや、純一から離れたかったのかもしれない。
「詩集だよ、バイロンの」
バイロン…ですか。私、知りませんけど」
「知らなくても構わないさ、読んでみたら。もう中学生だろ」
「2年です」少女の気に障ったか、言葉尻は短く切られる。
「ああ、2年生か。だったら読めるだろう。暇な時に、開いたページだけでも読めばいいさ。僕は大体そうしてる」
「でも、私は、演歌の歌本の方がいいかな」と、独り言のように言う少女の表情が少し緩んで見えた。
「演歌って、君は演歌が好きなのか」
「はい」
「でも今歌っていたのは、学校で習う歌だろう」
「『早春賦』です」
「演歌の好きな中学生が歌う『早春賦』だったのか。ラジオから流れる歌かとも思えたけど」と達彦が言うと、少女は莞爾として、
「今度、学内の合唱コンクールで、クラスで歌う曲なんです。私、二番をソロで歌えって言われてるんです。それで練習してたんです」と言い、歌い始めるいつもの仕草なのだろうか、緩やかに上体を揺らして見せた。
「ソロで歌う。成る程、上手いわけだ」
「いいえ、先生に注意されるんです。素直に歌え、声は真っ直ぐ出せって。演歌風になっている、音を揺らすなって」

 少女は頬を膨らませ、大きな丸い目をいっぱいに開いてその不満を達彦に訴えた。
「演歌ではお前には手も足もでないだろう」

 純一は少女の後ろから彼女の前に伸ばした手で達彦を指し、「このお兄さんは駄目だよ、歌謡曲を知らないし、演歌はもっと知らないから」と続けた。
「そうなんですか」と、少女は何故か嬉しそうに微笑み、そして、
「あのお兄さんはクラシックしか聴かないんだよ。ねえ、気障な奴だろう。厭味な男だろう」と、おどけた口調で言う純一を振り返り、手で隠した口の中で「変な人」と呟いたようだったが、押し殺した笑い声になっていて達彦はよく聞き取れなかった。それから暫く、純一も少女に合わせて笑っていたが、何がおかしいのか分らない達彦は、そうして笑っている二人を苦々しく眺める他はなかった。

 その後、叔父の教会で数日を過ごす達彦を訪ね、少女は詩集を持って現れる。そして、これはどう読むのか、これはどういう意味かと訊いてくる。納得しないと直ぐ達彦を離れ無言で庭先を歩き回るが、満足した時はニコニコとして鼻歌を歌いだす。自分の考えた言葉と同じ言葉が達彦から返ってくると満足するらしく、それに気付いた達彦は少女の期待する言葉を敢えて言ったりもした。正解ではないが少女の喜ぶ顔を見るのが楽しくなってきたのだ。そんな時、少女の歌う歌は必ず演歌だったが、「南国土佐を後にして」以外の曲名は達彦には分らなかった。

 また、達彦が散歩に出ると、必ず後について来る。そして直ぐに達彦を追い越し、前を歩いて歌い出す。最初は演歌である。『早春賦』も歌う。それを聴くと、歌の苦手な達彦も少し歌ってみたくなる。少女は時々、後ろを振り返りにっこりする。いつしか達彦は小さい頃の学校帰りの風景を思い浮かべ、少女の声に合わせて小さく歌っていた。

 その頃、達彦が叔父、国男に宛てた葉書がある。それは礼状を装ってはいるが、渡した詩集を少女が気にするかもしれないと思い、返す必要がないことを伝えるために書かれたものだった。

前略 先日はありがとうございました。お二人とも元気そうで安心致しました。私も山の空気を吸って、少し元気になったような気がします。都会の雑踏の中にいると、田舎の風景はやはり懐かしく思い出されます。東京はまだまだ暑い日が続きますが、そちらはもう随分過ごしやすくなったのではありませんか。帰る頃には蕾も膨らんで、今にも咲き出しそうでしたが、竜胆はもう咲いていますか。また近いうちにお邪魔します。体に気をつけてお過ごしください。叔母さんにも宜しくお伝えください。草々
1971年晩夏
達彦 
叔父上様


追伸:療養所の少女に詩集を渡してあるのですが、いつか会うことがあったら、返さなくてもいいと伝えてくれませんか。ぼくにはもう必要のない本ですから、宜しくお願い致します。

その少し後に、少女が手紙をよこしてきた。

 詩集ありがとうございます。牧師さんが持って来てくれました。バイロンは私には難しいのですが、一生懸命に読もうと思います。あの日、私は本を持って駅まで行ったのですが間に合いませんでした。それで牧師さんに預けたのですが、それを療養所に持って来てくれました。


 私はもう直ぐ退院して宇都宮に戻ります。2学期には少し間に合いませんでしたが、中学校に戻ります。それと、ほおずきを駅に続くあの丘に植えました。また、こちらに来ることがあったら見てください。


 牧師さんが、今度は遊びにいらっしゃいと言ってくれたので、来年の夏休みは治療ではなく遊びに来たいと思っています。ほおずきが育ってくれているといいのですが、見に来ようと思っています。
1971年 
氏家雅子 
山男のお兄さんへ

 ちょうど一年前の夏のことだった。確かに敏子の言葉の通り、少女の成長は早い。それは雅子を見れば明らかだった。だが、雅子の面影は、時には大人びた愁いを見せていたとはいえ、その殆どは少女のままだった。それでも達彦を慕う気持ちは一人前の女なのかも知れず、子供として扱うべきか、女としてみるべきかに思い悩むこととなった。