蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(14)

 その年の明けた正月、雅子は達彦に宛てた年賀状が戻って来たことに驚き平静を失った。受験勉強が手につかなくなり一人悩んだが、結局頼るのは牧師しかなく、意を決し次のような葉書を書いた。

前略 新しい年を健やかにお迎えのことと思います。年賀状を差し上げたばかりなのにまた書いてます。


 実は達彦さんに出した年賀状が戻ってきました。達彦さんは住所を変えたのですか。牧師様、お願いします。新しい住所をご存知でしたら教えてください。私、受験勉強もしなければならないのですが、気なってしようがないものですから、恥ずかしいのですがこの葉書を書いてます。かしこ

「引越したのかしら」敏子は葉書の裏を眺めそして表を眺め、何度もその動作を繰り返した。
「いないのだろうから、多分そうだろう」
「誰にも言わないで…。それでは雅子ちゃんが可哀そうよ。達彦さんは一体どうしたって言うの」
「若いから色々あるだろし、誰にも言わないってことはないだろう…。茂木君が知っているかもしれない」国男は少し考えるふうをした。
「訊いてみたら。でも、水戸のお義姉さんたちは知っているのかしら」と、敏子は促すような眼で夫を見た。
「さあ、どうなんだろう…」

 テレビには動物園のパンダ舎の前に溢れる人々の姿が写しだされていた。その中には晴着の女性の姿もあり、まだ正月らしい雰囲気が伝わってくる。前の年の11月に公開された2頭のパンダの人気は凄まじく、さらに正月の人出がそれに輪をかけ、連日大々的に報道された。そしてその後に、「のんびりいこうよ、おれたちは…」のコマーシャルが流れてくる。そのゆったりしたメロディは、広々とした北海道の景色の中を旅する若者の屈託ない笑顔に合っていた。二頭のパンダには日中友好の意味ともう一つ、そのほのぼのとした様子から、順調な発展に対する日本人の満足度を象徴する意味とがあった。しかしそれが高度成長の終焉であり、スローライフの前兆でもあることには気づいていない。それらはもう少し時を経ないと、人々は実感しない性質のものだった。
「ゆっくり行くのも良いわね。そろそろのんびりしたいものね」
「そんな時代になったんだろうね」
「がむしゃらに走ってきたものね」
「これからは、ゆっくりと歩こうか」

 勿論、既にこんな会話を交わす年配の夫婦はいただろう。

 後に、日本の高度成長期は55年頃からこの年の73年頃までとされるようになる。戦争の記憶は、前年72年2月と5月の残存兵の帰国や沖縄返還などを最後として消えかけており、時代の変換期にある感覚はあったろうが、成長期の最後の年との認識をその時代の人が感じる筈もない。

 いわゆるスローライフは、ずっと後90年代のバブル崩壊後に喧伝されるが、実際は先の年配の夫婦のように、戦後の復興を支えてきた人たちにこうした風潮はあったのである。それは平均寿命が延びたことと無縁ではないだろう。成熟は成長の終焉と共に始まるのだろうし、ガムシャラを忘れてゆとりを求めるようになるのだろう。時代は「のんびりいこうよ」の合言葉と共に新たな時を迎えようとしていた。この言葉はその後の時代を生きる一つの象徴となるのである。しかし世界に眼を向ければ、バングラディシュの飢餓やパレスチナの問題は世界に危機感を与え、それに呼応する一部の若者がいたことも事実である。

 前年の72年2月に連合赤軍浅間山荘事件があり、巨大鉄球による山荘破壊の中継に全国民が釘付けとなった。そして5月には遠くテルアビブのロッド空港で、日本の過激派3人が自動小銃を乱射して世界を震撼とさせ、9月のミュンヘンでは五輪村を襲ったパレスチナゲリラにイスラエルの選手ら十数人が殺害され、スポーツと政治の在り方が再び議論されたりもしていた。
「…達彦も悩んでいたようだったし…。茂木君に訊いてみるか」国男は妻の手から取った葉書に眼を落として呟くように言う。
「そうして。雅子ちゃん、勉強が手に着かないと思うわ。あの娘一途だから」
「そんなもんかね」
「そんなものよ。中学生を子供だと思ったら大間違いよ」

 その後、国男は姉に電話して姉夫婦も達彦の引越しを知らないことを知った。そしてその夫婦がそのことを大して心配していないことも知った。

前略 良い年をお迎えのことと思います。もう大学は始まったのでしょうか。ワンゲルもそうですが学業もおろそかになさらないようお励みください。達彦は、ワンゲルは駄目なようですから…。


 実はその達彦のことで教えて頂きたいことがあるのすが、ご存知でしたらお知らせ頂けないでしょうか。引っ越ししたらしく、以前のアパートにはいないようなのですが、それを水戸の実家でも知らずにいます。義兄は剛毅な人ですから少しも気にかける風もなく、また姉も泰然とした人ですから正月に戻らなくても心配する風もなく、私ばかりが気になっています。ご迷惑をおかけしますが宜しくお願いします。草々

 直ぐに、純一から返事が届いた。

拝啓 新しい年を迎え皆様ご健康でお過ごしのこと思います。私も元気に致しております。学校は始まっているのですが、相変わらず休講や突然の教室の変更等があり、まともな授業が少ない現状です。昨年はお世話になり有難うございました。今年は少し身を入れて勉強をしなければと思っていたところです。ご忠告有難うございます。


 大田原のことですが、ご存知かと思っていました。彼はインドへ行ってます。11月の下旬に日本を発ってます。期末試験には戻ると言ってましたから、1月下旬か2月上旬には戻ると思います。彼はインドへ行くと言いましたが、私は、目的地はバングラディシュだろうと思っています。勿論確信あるものではありませんし、彼に訊いても答えないでしょうから敢えて訊ねはしませんでしたが、戻って来たら話してくれるだろうと思っています。


 アパートは引き払っています。私に荷物を預かれと言ってきたのですが、実は私は3畳間に住む貧乏学生ですから、彼の荷物を預かる余裕はありませんでした。その時に「中禅に話してみる」と言ってましたから、多分、荷物は中禅君の所にあると思います。もしかしたら中禅君が詳しいことを知っているかもしれません。私は大田原から中禅君の名前を聞くだけで、彼は大学も違いますし、会ったことは有りません。


 大したお役にも立てず申し訳ありません。でも、そんなに心配なさらなくても大丈夫だと思います。私たちは結構、乱暴なことをして来ていますから…。山の中に一人残されても大丈夫ですから…。彼を信じてやってください。水戸のご両親にも心配ないとお伝えください。また何かありましたらお知らせ致します。敬具
1973年1月
茂木純一
野国男様

 国男は純一の手紙で達彦がインドへ行ったことを教えられた。日本人のスローライフの原点はインドにあるのかもしれないが、達彦がスローライフを求めて旅立ったとは思えない。茂木はバングラディシュが目的かも知れないと書いていたが、もしそうだとしたら、飢餓に苦しむ国へ行く目的は何なのだろう。国男はそんなことを思いながら、雅子には葉書で知らせ、水戸の姉には電話した。
「姉さん、達彦はインドに行っているそうだよ」
「ええ、そうなの。知らなかったわ。正月に戻ってこなかったら、また山へでも行っているのかと思ってたわ。あの子はいつもそうなの、心配してたらきりがないの」と、母親は鷹揚だった。

 雅子の心配を他所に、両親や友人が達彦の行動を心配するふうはなかった。