蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(10)

 青葉の発散する臭気がまだ残っているのだろう、独特の噎せるような青臭さが鼻につく。それは昼の熱気を感じさせ、息苦しさを感じさせた。少女の一途な思いをどう受け止めればよいのだろう。達彦は雅子の心にどう対すれば良いのか思いあぐねていた。

 熱い外気に潜む臭気は少し生臭く、その生臭さは少女の女としての息吹のようでもあった。臭気を放つ命と消え行く命、一方は限られた期間の或る瞬間の情熱なのだろうし、もう一方はその限られた期間の区切りに過ぎないのかもしれない。その突然の区切りを迎えた三ヶ月前の葬式の様子がその臭気の中に蘇り、一段とその刺激を強くする。それは当分達彦から消えそうにもなかった。
「返して、うちの子を返して下さい」母は涙しながら叫んだ。
「申し訳ありません。お詫びのしようもございません」

 ワンダーフォーゲル部の上級生を庇ってその前に立つ大学の関係者らしい年配の男は、母親の非難の前にそう言うのが精一杯で、ただただ頭を下げ続けるだけだった。
「あなたたちが殺したんです。罪もない私の子供を、よってたかってなぶり殺しにしたんです。そんな仕打ちをして恥かしくないのですか」

 今にも掴みかからんばかりの母親を父親は後ろから抱きかかえて引き離す。それを見る親族たちは皆目頭をハンカチで押さえていた。

 高校の同級生と共に参列した葬式で達彦はその光景を見た。その記憶は今でも昨日のことのように浮かんで頭を離れない。遺族の無念さは想像するまでもなく筆舌に尽くし難いだろう。その遺族の無念さには比すまでもないが達彦も奇妙な無力感に襲われていた。若い達彦にとって、死はどこか遠くにある漠然とした存在でしかなかった。それは近親者や友人の死を経験していなかったからかも知れないが、縁遠い存在であることに変わりはなかった。だから同級生の死はショックだったのだ。生命にとって必然の死が確実に身近にあることを改めて思い知らされたのだった。

 靄が消えた山は切絵のようにその形を黒く写し、太陽の落ちた空は山際を淡いピンクに染めてまだ明るさを残していた。雅子の走り去った小道は木立の中に黒く消えている。彼は年輪の浮き出た朽ちかけの丸太に腰を降し、暮れ行く風景の中で鼻につく臭気に苛立っていた。

 それから数日後、アルバイトの約束がある達彦が東京に戻る日のことだった。雅子はその間、何事もなかったかのように普段通りで、その朝も「達彦さん、東京に戻る前にほおずきを見に行きましょう。手入れをしておかないといけないの、手伝って」と達彦を誘う。達彦は直ぐに追いつくからと雅子を先にやり、その姿が小道に消えるのを待って叔母の敏子にそれとなく話を切り出した。
「僕のお嫁さんになると言うのだけど、どうすればいいだろう」
「そうでしょうね。雅子ちゃんならそう言うわよ」
「そう言うじゃなくて、僕はどうしたら良いのか訊いてるんだけど。放って置いたほうがいいのかな」
「いいじゃない、彼女、可愛いし」
「可愛いって、そういう話ではなくて…」
「達彦さん、雅子ちゃんが嫌いなの」
「だから、好きとか嫌いとかそういう話ではなくて…彼女はまだ中学生だよ、子供だよ」
「いいじゃない、今日、明日のことではないし。女の子の成長は早いのよ、16歳なんて直ぐよ」
「16歳だって、まだ高校生だよ」

 叔母は楽しそうで、まともな返答はなかった。

 いよいよ帰る時間になって教会を出ようとする直前にも「雅子ちゃんは達彦さんが好きなんだもの、しょうがないわよね。好きなものを嫌いとは言えないわよね。どう、一緒に東京へ行ったら」と達彦の困惑に構わず、そう言って雅子を煽った。
「迷惑がかかるから、達彦さんが困るから…」と、雅子は泣き出しそうだった。

 結局、雅子が駅まで送ることになったのだが、教会を出ると彼女はあの黄昏の日のように押し黙り、達彦の少し後を足音もなくついて歩いた。そこに「痩せちゃったけど株が増えたのよ」と、嬉しそうにほうずきの周りの草を取る少し前の少女の姿はなかった。
「雅子ちゃん、『早春賦』を歌ってくれないか」達彦は遅れてくる少女を立ち止まって待った。去年の夏、達彦と純一がふと見かけた少女は、二人が近づくのに気付かず熱心にその曲を歌っていた。

 少し驚いた表情を見せて雅子も距離を置いて足を止める。そして「今は歌いたくない」と言って俯いてしまう。
「最後に聴かせて欲しいんだけど、駄目かな」

 その言葉に雅子は目を光らせ、「今度歌います。今日は歌いません」と言って達彦を睨む。
「そうか、今日は機嫌が悪いんだ。そうしよう、次の機会の楽しみにしよう」

昨年の少女の透き通るような歌声が達彦の脳裏によみがえっていた。

 駅に着き、達彦が改札を抜けて振り返ると、少女は棒立ちのまま初めてはにかんだような笑顔を見せた。教会を出てから初めて見せた笑顔だった。だがその笑顔に潜む少女の悲しみに達彦はかけるべき言葉が浮かばなかった。
「恋に恋する年頃だから、達彦、あまり無茶するなよ。大事にしてやれ」

 それまでまったく口を挟むことのなかった叔父に出がけに言われた言葉を思い出した。無茶をするなとはどういうことだろう。大事にしてやれとはどういう意味だろう。思春期にある少女は少女と女の間を行き来し、一途な少女と片意地な女のその時々の姿を見せた。思春期にある少女に関わりのない達彦は依然として考えあぐねるばかりで、かける言葉を見い出せずにいた。
「私、手紙を書きます」 

 雅子は上半身を不自然に曲げてそれだけ言うと、素早く身を翻して駅舎を後にした。辛さを隠すためにそう言ったのだろう。そう言わなければ、何か言わなければこの場を立ち去ることができなかったのだろう。「さようなら」とは決して言いたくなかったのだろう。