蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(6)

 つぐみはみどりの手紙を何度も読み直した。決して有名な歌手でも、一人前の歌手でもないことは自分が一番良く知っている。そんな自分をそんな風に見てくれ、お世辞でもそんな風に言ってくれたことが嬉しかった。この頃一人でいると、明日に洋々とした輝きを見るよりも鬱蒼とした暗みを感じることのほうが多くなっていた。自分もみどりも何かを契機に変わらなければならない時期なのかも知れない。みどりがその契機を自分に見てくれたのであれば、それは嬉しいことだった。しかし私はどうすればいいのだろう。ただ歌うことしかできない。不安を隠して歌い続けることしかできない。

 みどりは小さい頃から草花を愛したばかりか詳しくもあった少女で、学校の帰りに道端に腰を下ろしてそれら眺めていることは度々だった。そのせいか雑草にも詳しく、カタバミ、オオバコ、イヌフグリの名前は勿論のこと、ペンペン草やカキドオシは薬草として使えることとか、ハハコグサは草餅に使われていたこと等も知っていて、雅子を感心させたりもした。

 そんなみどりをつぐみが「お花少女」と呼んだのはいつ頃からだったのだろう。つぐみは尊敬の意味を込めてそう呼んだのだが、いつの事だったか「それなら雅子ちゃんは変な歌ばっかり歌う歌娘ね」と答えた事があった。みどりは大きくなるにつれ「お花少女」と呼ばれることが気に入らなくなっていて、古い演歌を良く歌うつぐみを揶揄し、変な歌を歌う「歌娘」と呼んだのだった。みどりが「お花少女」を嫌がっていると感じたつぐみはそれ以来、面と向かってそう呼ぶことは止めたのだが、尊敬を込めて密かには呼び続けていた。

 つぐみが小学生の頃、宇都宮でも市街を過ぎれば田んぼや畑があり、小川が流れ、小高い森があり、子供たちが遊ぶ場所は至る所にあった。
 山が色づき風に吹かれてその葉を舞わせる頃、その山裾に沿う小道の傍らの柿の木は枝が折れるほどに実をつける。道に沿う小川には日向と日陰を行ったり来たり泳ぐ小さな魚がいる。そこは子供たちの絶好の遊び場所で、季節折々の遊びを楽しむことができた。或る子は野花を摘み、また或る子は小川を覗き、別の子は木に登って歓声を上げた。そしてその歓声は夕暮れになると決まって歌声に変わり、小高い森に木霊するのだった。

 その日も学校を終えた二人はその場所で遊んでいた。
「雅子ちゃん、そんな高く登ったら危ないわよ。もう、降りてらっしゃいよ」
「平気よ、遠くまで良く見えるわよ。みどりちゃんも登っておいでよ」と言って木を揺する。
「駄目よ、そんなことしちゃあ。枝が折れるわよ」
「大丈夫よ、ほら、見て」といって雅子はますます枝を揺する。
「雅子ちゃんもう降りて来て、帰りましょう。拾った胡桃あげるから」
「分かったわ。ちょっと待っててね」と言って、得意の「南国土佐を後にして」を歌い出した。
「雅子ちゃーん、私の知ってる歌にしてよ。そんな古臭いのばっかり」

 それは日本の各地でよく見られた光景だった。里山は人と自然を繋ぐ最も身近な場所だったが、この小さな森はゴルフ場になり、すっかりその様子を変えていた。