蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(8)

2章
 1972年の夏、大学2年になった大田原達彦は目的もなく高原の叔父の教会にやって来て、ぶらぶらと時を過ごしていた。彼は大学のワンダーフォーゲル部に所属したが、友人の死を契機に部活動への意欲をなくしていた。叔父の国男と約束のあった雅子がやってきたのはそんな頃だった。

 この5月に、別の大学でワンダーフォーゲル部に所属した友がその活動中に死亡していた。新入生をかばいその荷物を持って登山した優しい2年生を、他の部員は助けるどころか過酷な対応をして責めたのだという。2人分のザックを背負った2年生を足元のおぼつかない新入生と共に先頭を歩かせ、後から全員で追い立てるように進ませたのだという。
「しごきか訓練か」

 マスコミは連日、大々的に報道し、その活動の実態を赤裸々に書き続けた。そしてその原因は部員の、特に上級生のリーダーシップにあり、その無節操な行為は厳しく糾弾されて然るべきとの論調で締め括られることが多かった。
「我々は先輩から教えて貰った事を後輩に伝えています。それが我が校の伝統なのです」

 警察の聴取に答えたリーダーの言葉に理解を示す世間の声は稀だった。それは7年前の「農大ワンゲルしごき事件」を思い起こさせ、今回もまた刑事事件にまで発展し、今なお係争中だった。

 僅かな紐の掛け違いが雲泥の差となって現れる。そう思ってはいけないのかもしれないいが、達彦はそう思いたかった。そうでなければ死んだ友が痛ましい。

 その頃、達彦の大学でも先輩たちが何度も部の行動方針について話し合う姿が見られた。
ワンダーフォーゲルは山岳部とは違う。頂上を目指す必要はない」部員の一人は言う。
「訓練に必要であれば頂上へも行く。それは頂上に限らない。どこへでも行く」主将は応じる。
「そんな訓練は無意味だ。別の方法を考えるべきだ。我々が歩くべき場所は最初から決まっている。どこでも良いわけではない」
「身近な訓練の一つが頂上へ登ることにあるなら、近くにそれらしい山があるなら、それはそれで有効な選択肢の一つだ。元々、頂上を目指しているわけではないが、ピクニックでもない」
「いや、ピクニックで良いのではないか。問題は精神の筈だ。その精神が反故にされるくらいならまだピクニックの方がましだ」
「それは創生期の話だ。今時、精神論は通用しない。自分たちは1年の時から同じ訓練を受けてきた」
「精神論を抜きにした訓練には何の意味もない。それは軍隊の訓練にも劣る」

 ワンダーフォーゲルとはドイツ語の「渡り鳥」を意味する言葉で、その渡り鳥に習って自然の中を徒歩で巡るという運動であったのだが、資本主義が発達した19世紀頃には物質全能主義に反発した「自然に還れ」のスローガンのもと、目的地を定めず山野を漂泊して人間性の回復を目指すという考え方が主流になっていた。

 しかし、元々は自然を愛し、人を愛することで理想的な祖国の再建に貢献しようとする当時のドイツ青年の自主的な精神向上運動であり、それ故、学生ワンダーフォーゲルは自然や人間の営みを愛でることにとどまらず、社会の発展や繁栄に貢献するための健全な心身の鍛錬をその重要な目的の一つとしていた。

 日本でのワンゲル活動は、大正終わりから昭和初期頃の大学でのワンゲル部創設を契機に、全国各地に広まり活発化する。しかしその活動内容はそれぞれのクラブによって千差万別で、そのひとつに、ドイツのそれが自発的啓蒙運動であったのに対し,日本のそれは社会容認の中での山野跋渉やハイキングと同意と考えられていたことがある。これは精神の豊かさよりも生活の豊かさ追い求めた結果なのかもしれない。また、山岳部と変わらない登山を展開して身体の鍛錬を重視したクラブもあった。

 それは達彦の大学も同じで、身体の鍛錬か精神面の重視か確としたものはなく、その都度どちらかに偏重してしまう傾向にあった。達彦は自分の考えと必ずしも一致するものではないことに気付き始めていた。

 その事件後、部活動は覇気がなくなり、彼自身も何事に対しても達成感や充実感が得られなくなっていた。達彦の部活動への参加は少しずつ減り始め、この夏、参加することは全くなかった。地図上に計画を立て予定通りに走破し、初めて雅子と会った去年の夏とは大違いだった。