蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(9)

「最近、山が好きなのか、都会を逃げたいのか分らなくなってきた。何故僕はここにいるのだろう」

 達彦はポツンと言った。二人は療養所の前に整備された見晴らしの良い場所まで歩いていた。そこは昨年、雅子が良く歌っていた所で達彦と初めて会った場所だった。
「本当に雅子ちゃんは達彦さんが好きなのね。見てるだけで分るわ」

 出がけに叔母が雅子に囁いた言葉は達彦にも聞こえていた。叔母は達彦にも聞こえるように囁いたようだった。
「私がいるからでしょう。ここに私がいるから」と、雅子は少しおどけた口調で言い、達彦に眼を向ける。その瞳は言葉と違って少し潤んで見えた。一年振りに会う少女は、それまでにも大人の女のような仕草を見せることがあった。
「そうか、そうかもしれない」

 日が落ちると急激に冷えてくるのが常だったが、この日は風もなく二人の周りには依然として昼の熱い空気が澱んでいた。遠くの山の麓には靄がかかり、平地との境を不鮮明にし始めた頃だった。
「私、達彦さんのお嫁さんになります」

 唐突にそう言うと、雅子は潤んだ眼を逸らし、達彦に背を向けた。そして唇を固く閉ざし虚空を見つめ続けた。その間、体は微動だにしない。僅かに覗かせた頬の輪郭が、黄昏の薄い光の中に青白い筋となって光るばかりだった。それは少女ではない成熟した女の輝きを醸し出す。インド神話伝説上の妖精ヴィデヤーダラの、寂静でも忿怒でもない表情を連想させた。
「ええっ、お嫁さん…」

 達彦は冗談めいた口調で答えようとして彼女の後姿にただならぬ気配を感じ、言葉に詰まった。暫くしてから「雅子ちゃん、高校を卒業してからでも遅くないと思うけど」と、平静を装い穏やかに続けた。
「いいの」
「僕はまだ学生だし、これから先どうなるかも分らないし…それに雅子ちゃんはまだ中学生だし…素晴らしい男性はこれから先、何人も現れると思うけど」
「いいの、達彦さんは何も言わないで」
「僕の返事はいいのかい」
「ええ、いいの。私が決めたことだから、聞きたくないの」
「それは横暴だな。相手もいることだし」
「迷惑ですか。私が嫌いですか」
「嫌いではないけど」
「それなら迷惑…」と振り返った。

 ヴィデヤーダラはインドラ神に従うインド神話伝説上の妖精たちで、空中に住み、天上の伎楽を司る存在であったという。密教においては「持明者」と漢訳される超自然的な叡知と超能力を備えた半神半人の存在で、しばしば真言行者と同一視される。その意思をその修行の成果として眼力に表わし、周囲を震撼させる行者の眼光が潤んだ少女の瞳の中にあった。
「ああ、そういうこと」

 それは少女と女の狭間を行き交う雅子に戸惑う達彦の咄嗟に出た言葉だった。
「じゃあ、聞かなかったことにして」

 強い口調だった。雅子は視線を地面に落とし、両碗を強く胸の下に押し当てて震えを抑えようとしているようだったが、肩から背中にかけての震えが止むことはなかった。

 突然、枝葉に触れる羽音と共に野鳥の鋭い鳴き声が響く。それを合図に、雅子は樹木に覆われてトンネルのように暗いその下へ向かって走った。

 景色は色を失い、稜線もまた所々闇に融けてその境界を失い始めた黄昏に、達彦は静寂に戻った細い道に小さくなる後姿をぼんやりと見ていた。「暗闇を侵して女神は現れる」と或る詩人が謳ったその闇に、雅子の姿が消えるまでの短い時間だった。その僅かな時間にも雅子は少女ではない大人の女の後姿を見せたのだった。