蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(4)

 その奉納の舞が終わるまでがつぐみの「別れの一本杉」を練習する時間だった。歌詞が不明のまま「歌ってみましょうか」と答えたのは「演歌だろうがフォークだろうが、歌謡曲、学園ポップス、何でもOKだよ。なんでも得意だから任せてくれ」と常日頃から言う壬生の言葉があったからで、彼女自身思い出せなかった歌詞も壬生が何とかしてくれるとの思いがあった。
「歌詞を書いた。一度歌えば思い出すだろう」

 壬生のメモには几帳面な文字が並んでいる。
「2番はそうそう、〝遠い遠い…〟だったわ。〝東京へ着いたら忘れずに…〟じゃなかったですか。私の思い違いかしら」壬生のメモを見ながらつぐみは歌いだす。「〝必ず東京へ着いたなら…〟、〝東京へ着いたら忘れずに…〟」何度かその箇所を歌い比べた。
「〝必ず東京へ着いたなら…〟でいいだろう。ねえ、宮司さん」
「はあ、私は歌はちょっと、音痴でして」
宮司さんが音痴ということはないでしょう」
「いや、本当なんです、駄目なんです。歌の好きなのがいますから確認させましょう」

 宮司はつぐみの手のメモに眼を通すと逃げるようにテントを出て行った。宮司が出ていくと舞台の神楽の音曲は一段と大きくテントの中に響いた。

 つぐみは壬生の書いたメモを片手に歌詞を確認しながら歌い続ける。カラオケがあればその伴奏に乗って言葉が出てくるのだが、今回は誘導してくれる音がない。歌詞は覚えなければならなかった。
「この曲は男歌だ。女性には歌いにくいかもしれない。いいか、なるべく低く入れ。普段のキーを半音下げたぐらいがいい」

 壬生はつぐみの歌を止めてそう言った。高音部が不安定だった。
「ギターの前奏を聴いただけで曲全体がイメージできるほど伴奏は印象的だけど、その伴奏がないから、アカペラだから、出だしは感情を込めてゆったり入った方がいいかもしれない。オリジナル歌手のようなスムーズな歌い方より、カラオケがない分スローな語り口調のような歌唱の方がより情感が出るかもしれない」壬生は黒縁眼鏡の奥の視線を見せず、独り言のようにそう続けた。

 彼の恰幅のよい体に律儀そうな黒縁眼鏡が似合っていた。一見するとどこかの会社の管理職風で、頼りがいのありそうな体型は彼の人柄そのものだった。マネージャーとしては既にベテランの部類で、上層部から管理職の仕事を勧められたこともあるが、元々歌手を目指していたからかデスクワークは向かないと、若い歌手と共に現場にいることのできる現職を望んだ。
「この歌詞でいいそうです。この歌が大好きと言う男の言葉ですから間違いはないと思います」宮司が戻ってきた。
「ありがとうございます。私の勘違いです」

 つぐみは歌詞を見ながら再び歌いだす。オリジナル歌手の歌を聴いて覚えたつぐみに、壬生の言う歌い方は難しい。出だしの箇所に感情を集中して歌うと、「そんな感じがいい」と言う壬生の呟くような声が聞こえた。

 外で歓声が上がる。舞台は獅子舞から神楽に変わっているのだろう。子供たちの歓声が上がるのは決まって八岐大蛇の段だったのだから。元々は36座が舞われていたが、現在奉納されるのはその内の11座のみだという。その神楽も佳境に入っているようだった。

 午後になっても境内を吹き抜ける風は、朝露を含んだかのような青い香りを散らして聴衆の汗ばんだ肌を冷やしていた。それは深い森の狭い空間の気ままな風と同じで、人の意向に関係なく、とりとめもなく枝を揺らしては興奮した人の心を鎮めたのである。

「皆様、本日は誠にありがとうございました。この由緒ある祭りに呼んで頂いて楽しいひと時を過ごして参りましたが、とうとうお別れの曲になってしまいました。宮司さんからのリクエストで『別れの一本杉』です。この歌はご当地に大変縁の深い曲と伺いました。カラオケはありませんので伴奏なしで歌います。どうぞお聴き下さい。宜しかったら手拍子、お願い致します」

 舞台のつぐみの声に会場は一瞬しんとする。1回目のステージでのエンディングは「旅立つ彼」だった。それに代えて「別れの一本杉」を歌うと言う彼女の声に、聴衆の間に静かなどよめきが伝わっていく。
「皆さん、一条つぐみさんに無理にお願いしてこの曲を歌って頂きます。どうぞ、盛大な拍手をお願いします。そしてこれを縁に、今後とも一条つぐみさんの応援を宜しくお願いします」

 一瞬、聴衆を包んだ奇妙な静けさは、宮司の言葉を受けて大きくうねり、歓声となって狭い境内に溢れた。
「おおっ、おおっ。よくやった」
「がんばれよ、つぐみちゃん」
「いいぞ、日本一」
「ありがとー、つぐみちゃん。ありがとー」

 あちこちから歓声が上がる。その中には地の底から湧きあがる呻きとも祈りとも聞こえる呪文のような低い声音の連呼が混じっていた。様々な掛け声はそれぞれのこの歌に対する思い入れの表れれなのだろう。宮司は舞台の隅で、落ち着きの悪い雪駄を気にする風もなく、聴衆に向かって大袈裟な身振りで手拍子を促していた。