蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(25)


 それから数日後、達彦はカイロ大使館でつぐみの送った郵便物を受け取る。
「大田原君、郵便を預かっている」
 カイロに着いた翌日、出勤した達彦に上野耕平がそう言って近づいてくる。上野は50代前半位の二等書記官だった。
 達彦はカイロに異動した早々に大使に呼ばれ、
「私にはなんの報告もしなくていい。詳しくは知らないが、福島君から要請があったし、官房長官からも直々に話があった。だから私は詳しくは立ち入らない。何か不便なことがあったら、その時は上野君に相談するように」と言われていた。
 その上野がニコニコしながら郵便物を軽く振っている。
「恋人ですか」
 上野は内勤が主で、法律を専門としていた。エジプトやアラブ各国の法律や習慣にも詳しく、日本と交わした文書には全て目を通していると言われていた。差出人の名前を見たのだろう、笑みを浮かべて達彦の目の前に郵便物を差し出す。
「まあ、そんなところです」
 達彦もあえて否定する必要はないと思った。送り主欄に確かに氏家雅子と書かれており、つぐみの送ったものに間違いなさそうだった。
 包の中には『悲しみの町』のレコードと便箋が一枚入っていた。

 一条つぐみの新曲『悲しみの町』です。外国で聴いたほうがいいかもね、日本情緒たっぷりだから。その方が上手く聴こえるかも知れないわ。脂っぽい料理に飽きた時かな、それとも砂漠のカラカラに乾いた空気の中でかな。今はこの曲でキャンペーンの毎日です。
 府中神社での歌謡ショーはあの火事以来中止で、今年もありません。それにもう終っています。別の場所では歌いました。ほおずき市は多分、間に合わないでしょうね。片栗の花がまだ咲いている所があればいいのだけれど、お友達にきいて探しておきますから、必ず連絡してね。その日を楽しみにしています。雅子

 翌日、達彦は休日を取った。カイロ市の大通りを一本奥に入った住宅街の中にある日本大使館の職員宿舎で、ぼんやりとつぐみのレコードを聴きながらジャケットを眺めていた彼の目に、ある文字が写った。それは『悲しみの町』3番の最後の歌詞「悲しみの町とわに忘れず」だった。
「とわに忘れず…」と小さく口にして、1番から順につぐみの歌声に合わせ読んでみる。
 『悲しみの町』は男と女の別離をテーマにしたもので、それぞれの言葉は前の言葉の意味や韻を受けて書かれており、内容に奇妙な箇所はなかった。演歌や歌謡曲に良くある内容で、経験があるとも思えないつぐみは、懸命にその悲しみを歌っていた。その歌声に合わせ達彦は歌詞をたどる。

 そこに書かれる女の悲しみは、愛しさの故であり、執着あるからであり、そして諦め切れないからであるが、その内容に特段の真新しさはなかった。しかし常套句であろうとも、こうした人の情が書かれない限り演歌らしくないのもまた事実で、権力に対する抵抗や揶揄を込めて演説の代わりに歌った歌の名を借りているとはいえ、最早そうしたものではなく、情念が歌いこまれていなければ人はそれを演歌としては認めなかったのである。

 そうした女の悲しみがこの詞に書かれているとするなら、「永久に忘れない」とはどういうことだろう。詞に書かれた悲しみの町は、最後の状態を示した言葉なのだろうが、悲しみだけを表わしたものではないはずで、楽しく幸せであった頃を懐かしむ心があるからこそ、悲しみの町と言うことができるはずなのに、その言葉にはそれらを越えた何か別の意味が込められているように思えてならなかった。『悲しみの町』の歌詞は次のようなものだった。


 雨が降ります裏見の葛に 女は今日も待ってます
 あんなに咲いてた垣根の花も 雨に打たれて落ちてます
 ああ どこかで誰かの声がする
 鏡に写るは移ろいの セピアの色の過去ばかり
 悲しみの町 今日も暮れゆく


 風が吹きます験の杉に 女は今日も探します
 どんなに飲んでも夜明けの前に 辛いうつつに戻ります
 ああ どこかで誰かが歌ってる
 通りに揺れるは幻の 色を見せない影ばかり
 悲しみの町 明日は何処に


 鐘が鳴ります茜の空に 寂しい胸に響きます
 こんなに遠くに離れていても あなたに届くと信じます
 ああ どこかで誰かが泣いている
 あなたに託すは紅の 命を燃やす夢ばかり
 悲しみの町 とわに忘れず


 1番と2番の今日と明日を受けて、3番は「とわに」となっているが、状況描写ではないその言葉にある意思が感じられるのである。悲しみはすぐにでも忘れたいものだ。それをとわに忘れないという意思が、この歌詞に合っているとは思えない。永久に忘れないということは、すなわち怨念を意味するのではないのか。
 無記名であることが達彦にそうした疑念を抱かせた。届けられたものは怨みを伝えるものなのだろうかと考えた。しかし、誰の、何の怨みなのか、達彦に心当たりはなかった。

 普段、達彦が歌詞を読むことはない。つぐみの声を聴いている達彦に文言は必要なかった。言葉はつぐみの歌声を響かす道具でしかない。歌詞に込められた悲しみは、つぐみの唇から溢れる音色で充分に伝わってくる。しかし今、差出人不明のレコードが届けられ、その歌詞の中に違和感のある言葉を見出してしまうと、漠然とした不安は膨らむばかりだった。しかも思い当たる節のない達彦は、自分に対してのものではなく、もしかしたらつぐみに対してなのかと、ふとそんな考えも浮かんできて、新たな不安を覚えるのだった。

 
 作詞の三善友徳の名を達彦は知らない。つぐみのこれまでの4枚のレコードのA面B面にもその名はなく、初めて見る名前だった。演歌や歌謡曲を嫌っている達彦が、その作詞者や作曲者を知らないのは当然のことかもしれないが、それでもこの作詞者の経歴は調べてみる必要があると思った。しかし手元に資料はない。日本にいる知人に頼むのがてっとり早いが、かといって誰でもいいという内容ではなかった。舘林は親友とはいえ新聞社の男だからさすがにまずい。つぐみを知らない両親には頼めない。結局、二人を知る叔母しかいなかった。

 叔母敏子はつぐみの親衛隊長的なところがある。はっきりとは言わないが、あれこれと難癖つけて、雅子を達彦に押し付けようとしていた節がある。かつても、少年達彦が畏敬の念を抱いていることを知っているのか、何気ない言葉を吐いて少年の反応を楽しんでいたような記憶がある。叔母の言葉は達彦に重く響くのである。それは少年の頃に聞いた叔父のこの言葉に理由があった。
「彼女はジャンヌダルクのようだった」
 叔父は確かにそう言った。それはラマダンの日に、大勢の群衆に混じって聖地エルサレムに向かう最中の出来事だったという。なぜ二人がその日エルサレムに向かったのかは知らない。今はクリスチャンである二人が、当時既にクリスチャンであったのかどうかも達彦は知らない。しかし大勢のイスラム教徒たちの中で、叔母はまるでジャンヌダルクのようだったと叔父は言ったのである。勇猛果敢で逞しい女先導者。その言葉から連想するのはドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」の姿だった。
 その叔母に違った印象を持つようになったのは、氏家雅子が現れてからで、叔母は雅子が気に入り、ジャンヌダルクではなく聖母マリアのように雅子に接したのである。
「雅子ちゃんは、本当に達彦さんが好きなのね」と言う叔母の言葉は、達彦にとって脅しに近いものだった。


 つぐみと達彦の関係を知る者か、それとも多くのレコードの中から偶然に選ばれたものが『悲しみの町』なのか、判然としなかった。いずれにしろ、好意を示したものとは思えない。悪意であるなら、それは達彦に対するものなのか、それともつぐみに対するものなのか、これもまた判然としなかった。ただ、龍彦の胸中に漠とした不安が広がりつつあることは確かだった。