蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

松葉の流れる町(22)

 
 みどりが送ってくれた泰山木の写真の中に古いものが混じっていた。「アルバムを見ていたらこんな写真がありましたので、焼き増しして同封します」と書いてある。泰山木の前に幼い二人が並んで立つ姿で、花がついてないところを見ると季節は少し違うようだ。みどりは笑いを抑えてすましていたが、それでも零れる笑顔を抑えきれずにいる。つぐみは泣くまいと懸命に唇を結んでいたが、泣き顔であることは一目瞭然だ。
 つぐみには泰山木に登ろうとして叱られた微かな記憶があった。この写真はその日のものなのだろう。泣き出してしまったつぐみの機嫌を取るため、みどりの父は、「写真を撮るよ。さあ、雅子ちゃん、笑って、笑って」とカメラを構えていたのだろう。そんなことを思いながらつぐみは古い写真を懐かしく眺めた。


 達彦から電話があったのはそれから1ヶ月ぐらい後のことだった。 
 数日前に帰国したと電話口で一方的に言い、つぐみの休みの日を知ると、「時間がない。浅草にしよう」と、これもまた一方的に時間と場所を決めて電話を切っていた。手紙には場所は任せると書きながら、そして暑くなる前には少し長くいられそうだとも書きながら、しかしそれは当日になってさえ変更されるものだった。私に休みがなかったならどうするつもりだったのだろうとも思ったが、つぐみは、行き先を考えるだけでも楽しかったし、それだけで充分だった。実際、予定通りに行動しようとすると、必ず少しづつの狂いが重なって計画自体が駄目になるのは目に見えていた。達彦の帰国の間に休みがあったことだけでも、幸運と思わなければならなかったのだ。


 その浅草でつぐみはあの時の男に出会った。仲見世通りをこちらに歩いてくるその特徴ある容貌を忘れるはずはない。
「あの時のお金、多すぎます」
 つぐみは男の前に立った。
 前を塞いだ若い女を訝しげに見詰めた男は直ぐにつぐみだと気づいたらしく、「いいんです。頑張って下さい」と短く言って、傍らを抜け去ろうとする。 
「でも、多すぎますから」と、つぐみは再び男の前を塞ぐ。
「構いません。気にしないでください。それより私なんかに声をかけてはいけません、誰が見てるかしれません。失礼します」
「ちょつと待ってください。お名前はなんと仰るんですか」
 その言葉に男の顔つきが変わった。
「それを聞いてどうするんです。あなたの何の得にもならないことです」
 男は少し強い口調でそう言うと、つぐみを押し戻して足早に離れて行った。
「誰、知り合い?」
「違うの、この間レコードを買ってくれた人。その時のお金が多すぎるの」
「幾ら?」
「100万入っていたの。レコードを全部買ってくれたのだけれど、そこにあったのは300枚くらいだから、18万位にしかならないのに」
「気前のいい人だ。暴力団風だけど…」
「そうなの。それで少し気味が悪いけど、やりようがないし…。達彦さん、中禅さんは今どうしてるの」
「中禅…」
「あの人のバッジに龍の文字が書いてあったの。中禅さんに関係があるのかなと思って。中禅さんなら私を応援してやろうと、レコードを買ってくれるかも知れないでしょう。お金もありそうだし」
「彼は今、ヨーロッパだよ。オランダ辺りにいるらしい」
「何してるの」
「それは、良く分からないんだ」
「そう…」
 男は黒川誠という浅草を本拠地とする安達組の若頭だった。安達組はかって浅草で隆盛を誇った有力な一家だったが、数年前に西東組との抗争に破れて壊滅的な被害を受けていた。組長の息子を始め、将来安達組を背負うであろうと言われていた多くの若者たちが死んでいた。その後、安達龍蔵は覇気を失って急速に老け込み、体調も崩しがちになると、多くの若者が組を去って行った。かっての勢いのない今、その小さな組織を龍蔵の意を受けて黒川がまとめていた。
「コワモテの人だ」
「そうなの。初めて声をかけられたとき驚いたもの。だけど静かに話しかけてくれるの。きっと根は優しい人だと思うの」
「つぐみちゃんのファンなんだろうな」
「そうかしら。でもレコード全部買うくらいだからそうなのかもね。でもあの人じゃないわ。多分あの人の親分さんよ」
 つぐみはそんな気がしていた。あの男は親分に命じられてレコードを買い占めただけで、歌手一条つぐみへ興味ではなく命令に忠実な男のようだった。男の態度からそんな風に見て取れたのだ。
 達彦が振り返ると、足早に二人の前を去った男は次の角に姿を消すところだった。


「仕事はどお、うまくいってるの」
 浅草寺ほおずき市のたったその日、仲見世通りは緩慢な人の流れで混雑していた。二人は人混みに体を触れながら歩いた。
「ああ、相変わらずだよ」
 達彦はよそ見している人を避けてつぐみを引き寄せる。
 その時、一瞬達彦に体を預ける格好になったつぐみは、「そう、相変わらずかあ」と、達彦の言葉を繰り返しながら必要以上に体を押し付けた。
「大丈夫かい」
 その体を受け止めた瞬間、達彦はつぐみの香りを嗅いだ。そして同時に感じた柔らかな感触はその後まで達彦の中に残っていた。
「ええ。今日は人が多いのね。いつもこうなのかしら」
 店中を覗き込む人が路上に溢れ、真っ直ぐ進むのに苦労するほどだった。
ほおずき市らしいからね、だからだろう」と言いながら達彦がつぐみの手を握ると、
「…ねえ、テルアビブへも行くことあるの」と、つぐみは達彦に手を預けたまま、呟くように言った。
「テルアビブ…何故」
「いや、何となく…調査局というところなんでしょう。叔父様が話してた。あまり人に知られてはいけないような…」
「調査局といったって大したことをやるわけじゃない。ただ、今は現地調査が多いからあちこちへは行くけど、テルアビブは最近はない」
「そう。戻っていること叔父様には知らせたの」
「いや。暇がないよ。時間がある時にまた行くさ」
 久し振りだったが、達彦の仕事のことになると話が詰まってしまう。つぐみは訊いてはいけないような気もしていた。達彦に時間と場所を一方的に指定した強引さはなく、急によそよそしさを感じたつぐみは、無意識のうちに指先に力を込めていた。そしてそうしていたことに気付いた時、それに全く反応しない達彦を知って、今度は意識的に小指の付け根あたりを親指と中指で強く挟んだりつねったりしてみた。それでも達彦はなんの反応も示さず、つぐみの為すがままにさせていた。しばらくそうしていたつぐみは、次第に掌が汗ばんでくるのを感じるのだった。