蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

2010-01-01から1年間の記事一覧

21、森昌子 時代の歌謡曲

「時代の歌謡曲」と書いているが正確に言えば時代ではない。その時である。昭和39年(1964年)、東京オリンピックのあった年の3曲を選んだ。昭和39年には次のような出来事があった。 「東京オリンピック」94ヵ国7495人が参加。日本は 金16銀5銅8を獲得 「東…

手紙10 竜胆の里(2)

「氏家雅子の手紙」 詩集ありがとうございます。牧師さんがが持って来てくれました。バイロンは私には難しいのですが、一生懸命に読もうと思います。あの日、私は本を持って駅まで行ったのですが間に合いませんでした。それで牧師さんに預けたのですが、それ…

松葉の流れる町(10)

青葉の発散する臭気がまだ残っているのだろう、独特の噎せるような青臭さが鼻につく。それは昼の熱気を感じさせ、息苦しさを感じさせた。少女の一途な思いをどう受け止めればよいのだろう。達彦は雅子の心にどう対すれば良いのか思いあぐねていた。 熱い外気…

私が選ぶ3曲一覧

これらは全て森昌子本人、或いは何らかの形で関係ある歌または歌手から選んでいます。何らかの関係は筆者の推測も含まれます。分類は喜早哲氏の「日本の抒情歌」を参考にして幾つかを考え、該当しないそれ以外は3曲に共通するそれらしい言葉をタイトルとして…

20、美空ひばりと森昌子

1、 「あの丘越えて」(1951年) オリジナル歌手:美空ひばり、作詞:菊田 一夫、作曲:万城目 正 歌:森昌子と美空ひばり 昭和26年の松竹映画「あの丘越えて」の主題歌。瑞穂春海監督によるこの「あの丘越えて」は、ひばり(当時14歳)演じる少女と鶴田浩…

19、篠原義彦と森昌子

篠原義彦は円広志の本名である。円広志は1978年にデビュー曲「夢想花」を大ヒットさせたがその後ヒット曲には恵まれず、いわゆる一発屋とされる。それ故いじられ役タレントとしての出演が多いが、作曲家としても多くの歌手に曲を提供しており、その一つが「…

松葉の流れる町(9)

「最近、山が好きなのか、都会を逃げたいのか分らなくなってきた。何故僕はここにいるのだろう」 達彦はポツンと言った。二人は療養所の前に整備された見晴らしの良い場所まで歩いていた。そこは昨年、雅子が良く歌っていた所で達彦と初めて会った場所だった…

松葉の流れる町(8)

2章 1972年の夏、大学2年になった大田原達彦は目的もなく高原の叔父の教会にやって来て、ぶらぶらと時を過ごしていた。彼は大学のワンダーフォーゲル部に所属したが、友人の死を契機に部活動への意欲をなくしていた。叔父の国男と約束のあった雅子がやって…

18、森昌子 カバー演歌(2)

1、 「未練の波止場」(1957年) オリジナル歌手:松山恵子、作詞:松井由利夫、作曲:水時富士夫、(歌:森昌子) 松山恵子は「お恵ちゃん」の愛称で知られるが、これは紅白で、その時の司会者江利チエミが言ったのが最初とされる。後に松山は「おかげで落…

松葉の流れる町 登場人物

一条つぐみ…演歌歌手、本名:氏家雅子 氏家 勝…つぐみの弟 氏家 和江…つぐみの母 壬生 修造…つぐみのマネージャー 小山みどり…つぐみの友人 大田原達彦…つぐみの恋人、外務省勤務 大田原 隆…達彦の父 大田原良子…達彦の母 佐野 国男…達彦の叔父、牧師 佐野 …

手紙9 高野悦子にマドンナリリーを

「小山みどりの手紙」 雅子ちゃんお久し振り。鬱陶しい日が続きますがお元気ですか。勿論元気ですよね。元気のない歌娘では魅力半減です。 私は最近、雅子ちゃんの歌が本当に好きなことに気づきました。温泉神社でのあなたの歌を聴いてから、あなたの歌には…

松葉の流れる町(7)

この頃つぐみは達彦への手紙を書いては破り、また書いては破ることを繰り返した。達彦は1年前の75年4月に外交官として採用され、モスクワでの1ヶ月研修終了後、そのままその地の大使館に配属されていた。その1年間、つぐみは何通もの手紙を書いた。達彦も…

17、森昌子 抒情歌

1、「城ヶ島の雨」(大正2年) 歌手:奥田良三、作詞:北原白秋、作曲:梁田貞、(歌:森昌子) 大正2年(1913年)、島村抱月の依頼を受けて白秋が作詞。白秋は前年に姦通罪で告訴されて社会の激しい非難の中にありながら、その女性と共に移り住んだ三崎町…

松葉の流れる町(6)

つぐみはみどりの手紙を何度も読み直した。決して有名な歌手でも、一人前の歌手でもないことは自分が一番良く知っている。そんな自分をそんな風に見てくれ、お世辞でもそんな風に言ってくれたことが嬉しかった。この頃一人でいると、明日に洋々とした輝きを…

松葉の流れる町(5)

温泉神社から戻って数日がたった頃にみどりからの手紙が届いた。みどりとつぐみは宇都宮で小学校から高校までずっと同じ学校に通った幼馴染で、つぐみがデビューして都内の高校に移ってからも互いの近況を知らせあう程の仲良しだった。二人ともこの3月に高…

松葉の流れる町(4)

その奉納の舞が終わるまでがつぐみの「別れの一本杉」を練習する時間だった。歌詞が不明のまま「歌ってみましょうか」と答えたのは「演歌だろうがフォークだろうが、歌謡曲、学園ポップス、何でもOKだよ。なんでも得意だから任せてくれ」と常日頃から言う壬…

16、森昌子 赤い糸の思い出

悲しみ隠し桟橋に虚ろに影を映す時、誰でも人は寂しさに見えない糸を見るという。夢を失くした青春を海の暗さに散らしても、それでも人は小指から見えない糸が出るという。それはあそこのあの窓に明かりのついたあの窓に、きっとつながる赤い糸。 遥か彼方の…

松葉の流れる町(3)

「『別れの一本杉』を歌ってくれませんか。多分、皆喜ぶと思います。その曲とこの場所とは縁があるんです」 つぐみが1回目のステージを終え、控えのテントに戻るのを入口で宮司が待っていた。 「えっ、『別れの一本杉』ですか。曲は決まっていますから、難…

松葉の流れる町(2)

翌日、つぐみは栃木県北部の小さな町の神社で、その春祭りの舞台に立った。毎年4月の例大祭がその地域最大の行事で、山車が町中を巡り、主会場の境内には多くの出店が並び、他にも流鏑馬や演芸会等が催される。そして最上部の神楽殿では太々神楽と獅子舞が…

松葉の流れる町(1)

1章 窓の外で湿気を失った木の梁が収縮する時の乾いた音がした。光を求める昆虫が窓ガラスに当る音だった。闇の世界から見れば、僅かな白い光でも類まれなる危険の予知能力を忘れさせるほど魅力的に写るのだろう。二元進化の一方の極にいるといわれる昆虫の…

「松葉の流れる町」について

小説「松葉の流れる町」はカテゴリー「手紙」を文章で繋いで小説としたもので、1976年4月にその物語は始まります。登場人物は「手紙」と同じで、主人公一条つぐみはデビュー3年目のまだ脚光を浴びない下積み中の演歌歌手。恋人は外交官として外国に赴…

森昌子私論 目次

現在までの「森昌子私論」を整理すると次のようになります。 1章 挑戦の時 1-1少女森昌子の挑戦(1) 1-2少女森昌子の挑戦(2) 2章 天才の頃 2-1森昌子 明日を夢みて 2-2森昌子 天使たちの翔き 2-3森昌子の原点「南国土佐を後にして」 2-4美空ひばりの…

手紙8 座禅草の里

「小山みどりの手紙」 雅子ちゃんお久し振り。この間偶然ステージを見ました。栃木県北部の小さな町の神社でです。私はその町へキバナノアマナとヤブサンザシという野草を探しに行っていたのです。その町の奥に雲巌寺という寺があって、その辺りでは4月頃に…

手紙7 望郷のアムステルダム

「茂木純一の手紙」 取り急ぎ用件のみを記します。外務省、またはお前にこの話に興味があるかどうか知りませんが、日本人の過激派の件です。アムステルダムには日本人過激派らしい人物が数名いると、当地の取引先の人から聞きました。名前はそれぞれ、鈴木、…

俳句6 麦秋

麦の秋と書くが、麦秋は夏の季語である。秋は収穫を意味し麦の収穫時期を表わしているのだが、その季節が夏である為、麦秋は夏の季語とされる。 小津安二郎の映画に「麦秋」がある。これはその独特のカメラアングルで黒澤明と共に日本を代表する映画監督の作…

4-5森昌子と旅立つ彼(ひと)(2)

佐々木勉が二人いたとはウィキペデアによるもので、その記載部分を以下に引用する。 佐々木 勉(ささき べん、本名:佐々木勤(ささき つとむ)、1938年12月26日 - 1985年3月11日)は、昭和期の作詞家、作曲家、歌手。東京都出身。妻は女優の西尾美恵子。196…

4-4森昌子と旅立つ彼(ひと)

「愛する人に歌わせないで」(作詞、作曲:森田公一)、「旅立つ彼」(作詞、作曲:佐々木勉)、「わかって下さい」(作詞、作曲:因幡 晃)の3曲を選び、「森昌子 カバーフォーク」とする予定で調べ始めたのだが、「旅立つ彼」で意外とややこしいことになっ…

手紙6 少年時代(2)

「ある母親の手紙」 元気にしてますか。お母さんを心配してくれてありがとう。お母さんは元気です。毎日、元気に仕事に行っています。職場の人たちも色々と気を遣ってくれていますから、大丈夫です。子供だと思っていましたが、色々と考えていたのですね。少…

15、森昌子 カバーフォーク

1、「愛する人に歌わせないで」(1967年) オリジナル歌手:森山良子、作詞、作曲:森田公一 1974年12月LP「おかあさんに捧げる歌」より(歌:森昌子16歳) いわゆる反戦フォークだが、落ち着いたメロディラインが歌詞の通り子守唄風で、より強いメッセージ…

2-5森昌子と潮来花嫁さん

「潮来花嫁さん」は1960年(昭和35年)4月に発売された花村菊江のシングルで、作詞は柴田よしかず、 作曲は水野富士夫による。 1960年はあの安保の年である。阿久悠が「東京から若者がいなくなる」と嘆いたのは70年安保の時であり、高野悦子の自殺はその前年…