蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句6 麦秋


 麦の秋と書くが、麦秋は夏の季語である。秋は収穫を意味し麦の収穫時期を表わしているのだが、その季節が夏である為、麦秋は夏の季語とされる。
 小津安二郎の映画に「麦秋」がある。これはその独特のカメラアングルで黒澤明と共に日本を代表する映画監督の作品で、父と娘を題材としているのだが、特にその娘の結婚問題を微細に描いている。この映画には当時の日本の家の造りや庶民の生活の様子があり、また家族の会話を通じて当時の人の考え方が語られる場面もあり、未だに残る戦争の傷跡を隠しながら、ありのまま生きようとする姿に深い感慨が残る。原節子の「紀子」の楚々とした、また時には毅然とした、それでもなお慎ましやかさを失わない姿は、日本人の何たるかを語っているようであり、また家族の何たるかも語ってもいるようで、改めて今の日本人はどうなのかと思い起こさせる映画である。この紀子の父、間宮周吉(菅井一郎)は植物学者であり、現実的には庶民とはいい難いのだが、少なくても画面上ではその意味での父親像として描かれている。

 話が逸れた。麦秋に戻すが、麦が熟し収穫されると梅雨が始まる。否、収穫は梅雨が始まる前に終えねばならない。麦は乾燥地帯をその原産地としている。そして作物は季節のままに作られる。季節に添うから旬なのであって、人工の季節で作られた作物に旬はない。それが動物の食欲をそそるのはエデンの園の果実と同じで甘い香りの危険な誘惑だろう。疑似餌にも似てその後の悲運を隠した罠だろう。それらに気づかなければ理性も知性も意味はない。進化の過程で獲得したホモサピエンスの証を忘れ、本能のままに生き急ぐ現代人に、映画「麦秋」はその生き方を暗に示して見せてくれるかのようだ。


 麦秋や農婦胸より汗を出す(細見綾子)
 麦秋や子を負ひながらいはし売り(一茶)
 麦秋や何におどろく屋ねの鶏(与謝蕪村
 麦秋や蛇と戦ふ寺の猫(村上鬼城
 麦秋や葉書一枚野を流る(山口誓子
 麦秋一揆起こした村ぞこれ(嘯山)
 麦秋の雨のやうなる夜風かな(田中冬二)
 胸を打つ麦秋の波焦げ臭し(櫻井ハル子)     
 雨二滴日は照り返す麦の秋(高浜虚子
 小降りして山風のたつ麦の秋(飯田蛇笏)
 黄昏に潜むは誰ぞ麦の秋(蜂太郎)


 また、この短い季節の二毛作に使われなかった田には蓮華草の種が蒔かれる。蓮華草もまた田植え前には刈り取られ、家畜の保存用の餌としてサイロに備蓄される。蓮華草はこの時期の田園風景を爛漫と彩り、季節の賛歌を余すと所なく伝える夏告花でもある。日本の春から初夏にかけて田園がピンクに染まったのはいつ頃からなのだろう。菜の花の黄色よりは新しいと思えるのだが、このピンクが、芽吹く季節に華やかさを添える期間は意外に短い。いつの間にか刈り取られ、薄い緑に変色して累々とその身を横たえる姿を間もなく見ることになる。それは鬱陶しい季節の到来が迫っていることを示している。そうした爛漫たる風景を口にすると抒情となるのだが、滝野瓢水の抒情はこうである。


 手に取るなやはり野に置け蓮華草


 瓢水が遊女を身請けしようとする知人を諌めて読んだ句といわれ、野にあるものは野にあってこそ美しいという意味で、あるべきものは本来あるべき場所にあってこそ最善の意味を持つ。
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1) 蓮華草は春、蓮華は夏の季語
2) 映画「麦秋」の英語題名は「Early Summer」(初夏)である。