俳句19 行く春と秋
千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそゝぐ。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと見送るなるべし。
(中略)
旅の物うさもいまだ止まざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと又舟にのりて、
蛤のふた見にわかれ行く秋ぞ (「奥の細道」より)
「奥の細道」における矢立の句と結びの句である。舟を下りた時、そして再び舟に乗るのは「行く春」と「行く秋」の頃で、共に別れの心情を詠むのだが、それぞれに見送りの人たちや芭蕉本人の永久の別れへの思いが滲んでいる。
芭蕉自身について言えば、はじめての東北や健康状態のことから不安もあったのだろうが、しかし「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、…」と、冒頭に書かれたこうした思いを断ち切ることはできなかったのだろう。そしてそれはまた、先人西行への思いも含まれていたのかもしれない。
こうした思いを同行した曽良が感じぬ筈はなく、曽良の心境はこうだったに違いない。
曽良の眼に陰あり空に赤とんぼ(俳句3 赤とんぼ)
空飛ぶ赤とんぼの大群を見上げるその眼に映る陰、それは赤とんぼの陰ばかりではなかったのだ。
芭蕉が世を去るのはこの5年後の元禄7年10月12日(新暦1694年11月28日)。
旅に病んで夢は枯れのを駆け巡る
一般にこれが辞世の句と言われるが、最後の時に辞世をと弟子に求められた芭蕉は、日々是辞世なりと言ってこれを諭しその場で句を発することはなかったという。「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、…」この頃より既に旅に病んでの構想はあったのではないだろうか。
この最後の場面は「俳句5 風狂の人・惟然坊」で、芥川龍之介の小説「枯野抄」を借り書いたことがある。
行く春や思いかさねて撫でし子は
4月1日、日光を発った芭蕉一行が黒羽に着いたのは4月3日、新暦の5月21日で、今時分よりも少し後の春が行く頃だった。その野越えの途中に出会った少女がかさねで、箒川には今、その名に因んだ橋が架かる。