蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(15)


色鉛筆


 部屋の中まで射し込んでいた午後の日射しが消え去ると、間もなく薄墨を流して迫る黄昏の暗い影が忍んできます。モデルの胸奥に突然湧き上がった黒い雲は、その迫り来る暗い影と同じで、時間が経つごとにその暗さを増していったのです。それは「飯坂殺人事件」を読んでからのことでした。

 あの日、サリナスから戻ると、思ったとおり秋葉君はサンラファエロのジュディの家に来ていたのですが、帰りが遅くなったモデルは会うことはできませんでした。釈放されたニコラスとジュディが二人を待っていたのです。
アメリカを楽しんで…、僕はやらなければならないことがあるから」
 初めて会ったニコラスは、それだけ言うと自室に籠ってしまいました。しばらく見ることができなかった星を見ているとジュディが教えてくれます。一日も休むことなく星を観察し続けたニコラスにとって、拘留期間はひどく長く感じられたのでしょう。戻ると直ぐに天体望遠鏡を覗いたそうです。
 秋葉君はワイルド保安官との取引に応じるために、ニューヨークである人を探し、名前を出す了解を得てきていました。本人はすでに亡くなっていたため、その家族を探すのに手間取っていたのです。そしてニコラスをジュディに渡すとそのまま空港へと向かったのです。
 保安官の意図がフリーメイソンにあることは薄々察しがついていました。しかし探し当てた故人がそうであったとしても、不利益を被ることはないとしてその名を告げたのです。
「多分、お父さんはフリーメイソンだったと思う」
 秋葉君はジュディに言いました。
「それが今度の件に関係してたの」
「多分、だけど本当の狙いがどこにあるかは分からない。それにしても、何故、今頃…」
 フリーメイソンアメリカが国家として深い関わりにあることは分かっていましたが、保安官の動く真の目的にはたどり着けなかったのです。
 そしてモデルは、秋葉君が日本に戻ったと聞き慌てて「飯坂殺人事件」読み始めたのですが、読み終えてある蟠りを抱えてしまったのです。

 「飯坂殺人事件」に持ったモデルの疑問を知るために「飯坂殺人事件」の概要を紹介します。確かにどこか妙な結末でした。ただ、ありえない話ではありませんが小説として読むとやはり違和感が残ります。蜂谷八太郎のペンネームとはいえ、動機付けの天才とまで言われる乱穂先生の小説とは思えないのです。


飯坂殺人事件 

主な登場人物
秋葉鉄斎…探偵
阿部警部…福島県警の警部
藤武…旅館幽山閣の主人
首藤幸…旅館幽山閣の女将
首藤鈴子…武の妹
首藤珠子…鈴子の娘
多々羅健一…多々羅旅館の主人
龍小路麗子…幽山閣の客、伯爵の娘
赤原…泥棒


概要 事件は神社の境内で少女の死体が見つかったことに始まります。被害者は6才の少女首藤珠子でした。当初警察は、その神社の石段を降りるところを見られていた叔父の首藤武を犯人として拘束します。警部はその動機を「珠子の父を多々羅健一だと思って、生かしておくわけにはいかなったのだろう」と考えたのです。旅館幽山閣と多々羅旅館は、古くは殺し合いを続けた程仲の悪い間柄で、今でも相容れない家同士でした。そのため鈴子と健一はその仲を裂かれ、鈴子は家を出ていたのです。そして、娘の珠子を連れて突然戻ったのですが、兄の問いにもその子の父の名を明かすことはなかったのです。警部の推理のポイントはそこにあったのです。

 しかし秋葉探偵はこの推理を否定し、犯人を赤原と断定します。赤原は泥棒に入った時に珠子に見られたと思っていて、珠子の周りをうろついているところを見れれていたからですが、実はこの少女珠子には、布団を抜け出し立ったまま眠るという奇妙な癖があったことを知らなかったのです。一種の夢遊病で、本人は眠っているのですが初めて見た人には起きているとしか見えないのです。その夜、赤原はその姿を見てしまったのです。更に、その罪を隠すためにより重い罪を犯すと言う行為は、一人殺すのも二人殺すのも同じと考える犯罪者特有の心理でよくあることと探偵は言います。


 事実は小説よりも奇なりといいますが、奇なる現実は創作である小説にはそぐわない面があり、モデルはそこに疑問を感じていたようです。そして、探偵が麗子に詰問される場面も奇妙でした。どう考えても探偵が嘘を言っているとしか思えないのです。参考まで本文中のその場面を引用します。

「秋葉さん、あなたハンチングをお持ちですか」
 麗子が言った。麗子は珠子と二人でいた時にハンチングにマスクをした男に見張られていたことがあったという。
「その時の男が、秋葉さん、あなたにそっくりなんです。あれは赤原という人ではありません。確かにあなたでしたわ。あなたも疑わしい」と麗子は秋葉探偵を見つめて言葉を待った。
「何を言うのです、麗子さん。私はある人に頼まれて、麗子さん、あなたを見張っていたのです」
「嘘おっしゃい。私の居場所が分かる筈はないもの」
「麗子さん、簡単でした。あなたは何度か、ご両親に元気でいることを知らせるために手紙を書かれていませんでしたか。あなたはお見合いが嫌で逃げてきただけで、両親に心配をかけるのは本意ではなかった。だから安否だけはまめに知らせていた。ただ、それによって居場所を特定されるのを恐れて、投函場所はその都度変えていた。そうではありませんか」
「確かに連れ戻されるのはごめんだからそうしたけど、それで分かる訳はないわ」
「いや、私には分かったのです。手紙に押されたそれぞれのスタンプの地名と時間を見比べて分かったのです」
「そう、毎回変えていましたもの。分かる筈がありませんわ。私が移動していると思った筈です。仙台、郡山、宇都宮へと」
「いや、それで私はあなたがどこにいるか分かったのです」(「飯坂殺人事件」蜂谷八太郎)

 消印にある時刻から、その場所から新幹線で福島までの時間を引くと皆同じ時刻、午前9時頃になるのですが、麗子が規則正しい生活をしていることを旅館の従業員らから聞いている探偵は、それらからポイントの福島を見つけ出し、そして福島から1時間以内の距離に見当をつけて、飯坂を割り出したといいます。宿を朝8時頃に出るとみなその時間になるのです。そして依頼を受けて麗子を見張っていたというのです。
 しかしこの話は嘘臭いのです。小説の中で麗子の両親は探偵に娘の消息を探らせてはいないのです。両親は確かに「探偵には頼んでない」と言い、探偵は「ある人に頼まれた」と言っているのですが、善意に解釈すれば両親の依頼が巡り巡って秋葉探偵に回ってきた、あるいは見合い相手からの依頼があった、とは言えるかもしれませんが、しかしそれなら何故そう書かないのかとの疑問が残るのです。
 また、麗子に詰問される場面での探偵の言葉が、誘導尋問めいているところがあるのです。事件発生直後に現地で事情聴取をやっていれば、麗子がどんな人間で、どんな生活をしていたかは分かります。それを元に飯坂を探し当てた理由にしているような気がします。秋葉探偵は麗子の手紙を見ていないような口振りなのです。見ていなくても、麗子の生活態度からそうしているだろうと予想しての問いかけのように思えるのです。頭脳明晰、心理学の優秀な学生だった葉山君なら、咄嗟にこれ位の対応は可能な筈なのです。小説の中の秋葉探偵が、この葉山君をどれ位引き継いでいるのかは乱穂先生にお伺いする他はないのですが。


 ただ、秋葉探偵はハンチングとマスクの男が自分であることを認めています。そして探偵の言葉に嘘があるとするなら、それは監視の対象が麗子ではなく珠子だったということを意味するのです。モデルはこのことに気づいて動揺したのです。その理由は、そしてこの探偵が犯人だとするならその動機は、とモデルは疑惑の眼を探偵に向けたのです、とさ。