蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句16 埋み火


 月天心貧しき町を通りけり  与謝蕪村


 月が天心(空のまんなか)にかかっているのは、夜が既に遅く更けたのである。人気のない深夜の町を、ひとり足音高く通って行く。町の両側には、家並の低い貧しい家が、暗く戸を閉ざして眠っている。空には中秋の月が冴えて、氷のような月光がひとり地上を照らしている。ここに考えるのは人生への或る涙ぐましい思慕の情と、或るやるせない寂寥とである。月光の下、ひとり深夜の裏町を通る人は、だれしも皆こうした詩情に浸るであろう。しかし人々はいまだかつてこの情景を捉え表現し得なかった。蕪村の俳句は、最も短い詩形において、よくこの深遠な詩情を捉え、簡単にして複雑に成功している。実に名句というべきである。


 これは蕪村の句に対する萩原朔太郎の鑑賞文で、「清貧の思想」(中野孝次・文春文庫)の中の一節である。
 寒いというのではない、かと言って寂しいというのでもない。このもの侘しさが単なる侘しさだけに留まっていないのは、「人生への或る涙ぐましい思慕の情と或るやるせない寂寥」とを感じるからで、それは万物一切が生滅変転する存在であることを認めているからに他ならない。月が空の真ん中にある。その下に生活のある貧相な家並が続いている。月は煌々とその家並みを照らしている。時が止まることはない。この超然とした態度は悟りにも似た諦念の境地であり無常の心境であろう。


 この文庫本「清貧の思想」は古本屋で見つけたもので、100円だった。否、3冊で200円というので3冊買ったから100円もしない。本離れが言われて久しいが、本屋さんもめっきり少なくなった。古本屋さんも同じである。まあ、人に誇るほど本を読む訳でもないからそれをいうべき立場にはないが、行く場所が少なくなったとの実感はある。私の買った文庫本「清貧の思想」は1996年に発行されたものだった。ただ単行本として1992年の発行されており、その解説には、1992年秋、世に問われた本書はいちはやくベストセラーになったばかりでなく、書名に掲げられた「清貧」あるいは「清貧の思想」は「時代の言葉」となった、とある。そして、虚飾を捨て、安らかな心を重んじ、身の丈に合った清楚な生活を旨とする、とはどのような生き方を言うのだろうか、と続けられている。1992年、それはバブル崩壊が盛んに叫ばれていた頃である。人はその心のあり方のシフトをも余儀なくされていたのだろう。
 しかしこの本結構難しい。ベストセラーになるものとは少し違うような気がする。当時こういうものが望まれていたのだろうか。私はへそ曲がりだからベストセラーと言われると読む気がしなくなる。少し時を置いてまだ読む気があればその時にと考える性質だが、この本がベストセラーだったとは知らなかった。バブルがはじけ、私も皆同様、四苦八苦していた頃である。本を読む気にもならなかったのだろう。 
 そして本文ではその後に次の句が記されている。


 うずみ火や我がかくれ家も雪の中  与謝蕪村


 これには著者も言うように、蕪村のこの絵がピッタリだ。
「夜色楼台雪万家の図」(蕪村)


 埋み火の赤みに幼き日のありて


清貧の思想 (文春文庫)

清貧の思想 (文春文庫)