蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

他23、ジャック・ロンドンとサンフランシスコ地震


ジャック・ロンドン(1876〜1916)

「旅する21世紀ブック 望遠郷11」(同朋舎出版)より


 サンフランシコ生まれ。波乱に満ちた生涯を送り、その生涯が伝説化された最初のアメリカ人作家と言われる。その作品「サンフランシスコはもうない」から。 

 壊れた建物を数え上げれば、サンフランシスコの年鑑を1冊読まなければなるまい。無傷の建物を列挙しても、1行と2、3の住所で済んでしまう。英雄的な行為を列挙すれば、図書館ひとつがいっぱいになり、カーネギー財団を破産させてしまうだろう。死者の名簿はつくられることもない。残ったものすべて炎に消えてしまうだろう。
(中略)
 町全体がが倒壊し、廃墟と化したあの水曜日の夜は、意外にも静かな夜だった。不穏な集まりはひとつもなかった。叫び声もうめき声もなかった。ヒステリーも混乱もなかった。私は火事の進行を追って水曜の夜を過ごしたが、あの恐ろしい数時間のあいだ、泣いている女も見なければ、興奮した男も見なかった。わずかでもパニックに陥っている人はひとりも見なかった。一晩中、約1万人もの人々が家を追われて、炎の前を逃げ惑っていた。毛布にくるまっている人もいた。寝具や大切な家財道具を運んでいる人もいた。一家全員が、持ち物を満載した荷馬車や配達用のトラックにくくりつけられていることもあった。乳母車、おもちゃのトラック、帽子が運搬道具として使われていた。誰もがトランクをひきずっていた。それにもかかわらず誰もが親切だった。最も完璧な礼儀正しさがあふれていた。サンフランシスコの歴史の中で、あの恐怖の一夜ほど、住民が親切で礼儀正しかったことは断じてない。(「サンフランシスコはもうない」ジャック・ロンドン

 1906年のサンフランシスコ地震マグニチュード7.8の大地震だった。当時市当局は暴動や資産の暴落を恐れて被害を少なく発表しているが、今では死者は500人ではなく3千から4千人だったと言われ、家を失った人は市民の半数以上の25万人と言われる。「サンフランシスコはもうない」に書かれたその時の様子によれば、市民はサンフランシスコの歴史上、最も親切で礼儀正しく行動していたのである。
 昨年の東日本大震災での被災者の忍耐強い態度は世界各国から賞賛されたが、それはサンフランシスコ市民も同じだった。そのサンフランシスコは6年でその復興を成し遂げている。フォーティナイナーズの精神を見る想いで賞賛せずにはいられない。しかしこれを機に、西海岸の中心はサンフランシスコからロサンゼルスへと移るのである。
 1769年、ガスパル・デ・ポルトラを隊長とするスペイン隊によってサンフランシスコ湾が発見されて以来、大きな変化のなかったこの港町は、1848年にサクラメント近郊のアメリカン川で金が発見されると、国内は言うに及ばず外国からも大勢の人たち押し寄せ人で溢れかえる。300人ほどだった住民は3ヶ月後には25000人にまでなったという。
 ゴールドラッシュの始まった1849年にサンフランシスコに上陸した人たちはフォーティナイナーズと呼ばれたが、一攫千金を夢見る彼らの多くは、恵まれない人々、冒険家、政治的に好ましからざる人々だった。しかしこうして、サンフランシスコはカルフォルニア随一の都市へと発展していったのだが、1906年地震で一瞬にして灰燼に帰してしまうのである。
 地震直後の写真と絵をご覧ください。


「旅する21世紀ブック 望遠郷11」(同朋舎出版)より
下の絵はウィリアム・コールター作


 ジャック・ロンドンのこの地震の記憶は後の「鉄の踵」の元になる。彼は貧しい家に生まれ、1889年に小学校は卒業するが貧困の為に進学できず、缶詰工場で1日14〜18時間働いたという。「私は何でもやった。サケ漁の漁師、カキの養殖場荒らし、スクーナー船の水夫、漁場の警察官、荷揚げ人足、要するに私はサンフランシスコ湾の冒険家だった」と書くように、貧しい生活の中に生きたが、 1903年出版の「野性の呼び声」によって一躍流行作家となる。以後20年間に53冊の著書と200以上の短編小説を発表した。
 1893年、アザラシ漁船の乗組員として小笠原諸島や横浜に上陸しており、1904年(明治36年)には、日露戦争の取材のために記者として来日し、撮影禁止区域で写真撮影したためスパイ容疑で逮捕されてもいる。そして1916年11月21日、グレンエレンの自宅でモルヒネを飲み自殺する。ジャック・ロンドンはその人生を40年で走りきったようだ。