蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代23、寒い朝と故郷と幸せと

 

 寒いのだけれど、どこか凛とした気持ちにさせてくれるこのナレーションは、当時はごく普通のものだった気がする。しかし今、こうした気持ちにさせてくれる言葉を聞くことは滅多にない。言葉だけでその情景が浮かぶ。言葉だけで気持ちを奮い立たせてくれる。寒風に立ち向かう勇気を与えてくれる。いささか情緒的過ぎると思わぬでもないが、乙女にはこれくらいの修辞があっていい。
 森昌子のこの「寒い朝」は、吉永小百合とは違ってなんとも現実的というか、実感が湧くというか、気持ちを素直にさせてくれる。歌とはこういうものだろう。かと言って、私が吉永小百合を批判するということではない。ただ、どうしても彼女の歌は映画の中での歌という気がしてしまう。それは何故なのか考えると、彼女が私にとって今だに銀幕のスターで、もしかしたらその最後の人なのかもしれないのだが、今や信仰の対象に近い存在にまでなってしまっているからなのだろう。
 その特徴ある声質は、否応なく私の琴線を揺さぶるのだ。隠れサユリストには彼女が歌っているだけで充分なのだ。彼女は女優なのだ。


吉永小百合寒い朝
http://youtu.be/NnP8wDa6Qsk
森昌子寒い朝
http://youtu.be/8XDUBPhSxeU
(12.3)


 さらにこの曲、「故郷ごころ」。どなたかのコメント「最近はこんな女性見たこと無いなぁ…」には同感する。この映像を見てまっ先に浮んだのがこんな言葉だった。感情丸出しやヒステリックな話し方に加えて、堂々たる男言葉が女性の地位向上や男女同権の成果とは考えていないだろうが、それでもどこか勘違いされているような若い女性を見るにつけ、榎美沙子や永田洋子が何を望んでいたのかを考えさせられる。電車での化粧はマナーの問題で、電車内のマナーが劣悪化している昨今を考えれば、こればかりを取り上げて声高に叫ぶ気はない。私が電車に乗るたびに嫌な気分になるのは、マナーの劣悪化ではなく単なる私のカルシウム不足なのか。是非、そうあって欲しいものだが。

 話を戻そう、「故郷ごころ」。それにしても森昌子がこんな風に体を揺すって、気持ちよさそうに歌うのはあまり見たことがない。何か幸せなことでもあったのだろうか。寒い朝と故郷と幸せと、1981年のある日のことだった。


森昌子「故郷ごころ」
http://youtu.be/6h8fMrKaxlk


 最後に、同じく1981年のこの文章を引用する。豊かさとは、幸福とは、考えさせられる。そして同時に、最近国王が来日されたブータンの「国民総幸福量」とノーベル平和賞ワンガリ・マータイの「もったいない運動」を思い出させる。豊かさとは、幸福とは、一体何だろう。 

 ある日私は、東京・山手線の駅構内で、一人の紳士がごみ箱をあさっているのを見た。誰かが押し込んで行った週刊誌を拾い上げると、紳士はすました顔をして階段を登って行った。国電の中ではさっそうと乗り込んで来た二十代の若者が、すばやく網棚に視線を投げる。そして、そこに置き捨てられていた一部の新聞を手にすると、吊革につかまって平然と黙読し始めた。
―昔の日本人は、こんな恥ずかしいことはしなかった!
「落ちたるを拾わず」と言えば少し古すぎようが、紳士がごみ箱をあさり、若者が人の読み捨てた新聞をはずかしげもなく拾う。こういう習慣を身につけてしまった民族が、果たして幸福といえるだろうか。(『値段の風俗史』澤野久雄・1981年・朝日新聞社


国民総幸福量
国民総幸福量 | ブータン政府観光局 公式サイト


「もったいない運動」
もったいない - Wikipedia


 寒い朝は遠い日の
 故郷の心象なのだ
 豊かさも、幸せも、何も言葉にする必要のない
 まほろばの心象なのだ