蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代32、森昌子と劇場(9)

8、帝国劇場(3)

帝劇への道


有楽町駅前

有楽町ガード下から帝劇方向

 帝劇への道を歩きながら私は考えていました。「音を外してもいい、思い切り叫べ。そうすることで周囲の奇怪さを忘れてしまえ。本題を思い出せ」と言ったのは誰だったのだろうと。アルバム「熱唱ひとり舞台」を見る限り、杉紀彦と服部克久、この二人の名以外は浮かんできませんでした。それは言葉にはされなかったのかもしれませんが、一連の二人の作品と、実際に指揮を取り構成に名を連ねた二人の存在がそれを示しているように思えてならなかったのです。


ビックカメラ(旧そごうデパート)

フロア案内板(7Fよみうりホール)

7Fのよみうりホールロゴ

 この頃、彼女の周りには同年代の多くのアイドルと呼ばれた人たちがいました。しかしデビューした当時、彼女は大人の中のたった一人の子供だったのです。子供が子供として見られている時はいいのですが、しかしそうしたことも長くは続かなかったろうと思います。よくよく考えれば、たとえ子供であろうと同業者であり、競争相手のひとりであることにかわりはなかったのですから。
 そうした環境に長くいることで、周囲に奇怪さを見てしまうのは時間の問題だったろうと思うのです。そしてそんな場面に遭遇した時に、うまく対応できなかったろうとの想像も容易につくのです。そんなことが重なっていくうちに、些細な現象でさえ奇怪な現象となって少女の意識を占領していったのかもしれません。
 この頃の彼女は、もしかしたらこうした症状から抜け出せずにいたのではないのかと考えてしまうのです。そして、それに気づいた二人が、7周年のこの時にそれをふるい落とさせるために叫ばせたのではと思ったのです。作詞家と作曲家である二人に、この程度の洞察は容易なはずなのです。


帝国劇場正面

帝国劇場外観

日比谷通りを挟んで皇居のお濠。カメラの後ろは日比谷公園


 ああ、帝国劇場が見えてきました。私は帝劇の建物が見える場所までそんなことを考えながら歩いていたのです。そうであるなら、時間は少し逆行しますが、紅白での「涙の桟橋」も理解できるのです。そんなことだったのか、と。
 これは私の誤った推測なのかもしれませんが、それならそれでもいいのです。たとえ間違っていても、このアルバムから感じる「命いっぱい歌います いつまでも歌っていたい私ですから」の言葉は、既に私の中では真実になっていたのですから。



 以前に書いた帝劇に走った衝撃とは「生きて下さい 愛して下さい」のことだったのですが、別の見方をすれば、これは周囲の奇怪さに気を取られ過ぎていることを教えるため、彷徨う青年に届けられた贈り物ではなかったのかということなのです。しかし、このプレゼントを受けたからといって旅の終りではありません。旅はまだ始まったばかりです。ただ、行方を照らす光が見えたことだけは確かだったろうと思います。
 オデュッセウスはふるさとへの帰還に10年を費やしました。鑑真は20年もの間、来日への執念を持ち続けています。天才少女もまた年月をかけてその殻を脱がなければならないのです。新たな衣を纏って生まれ変わらなければならないのです。その旅は、節目の一点を過ぎたとはいえ、まだ始まったばかりなのです。
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※1)ここに書かれた内容が事実であるとの裏付けはありません。全ては推測です。事実はただ一つ、私がよみうりホールのある建物の前を通って、有楽町から帝国劇場まで歩いたということだけです。

※2)杉紀彦詞、服部克久曲による作品
 「母に手紙を書く時は」
 「想い出をください」
 「娘の名はほたる子」
 「ほたる野の伝説」
 「ほたる子のテーマ」
 「恋唄」
 「いつまでも愛していたい」
 「生きて下さい 愛して下さい」

※3)杉紀彦詞、佐々木勉曲によるあの作品
 「この胸の幸せを」
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 時空を遡り旅人の歩みに合わせてみれば、よみうりホールを過ぎて帝劇近くまで来ています。その頃の熱唱です。
森昌子「この胸の幸せを」
http://youtu.be/hWBoGU8u-e4