蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句23 銅の山


 ウィキペディアによれば、栃木県の足尾銅山は1550年(天文19年)、室町幕府13代将軍足利義輝の頃に発見されたという。鉄砲伝来(1543年)やザビエルの来日(1549年)の頃である。一方、「足尾銅山発見の謎」(池野亮子・随想舎)には、それは1610年(慶長15年)の江戸時代であり、備前の国の農民、治部と内蔵によって発見されたと記される。少し年代は異なるが、いずれにしても足尾の銅産出のひとつのピークが江戸時代にあったことに違いはなく、その量は年間1,200トンに及んだという。
 しかし幕末から明治初期頃には、有力な鉱床は掘り尽くされたのだろうほぼ閉山状態で、1871年明治4年)民間に移された時には150トンにまで落ち込んでいた。1877年(明治10年)、銅山は古河市兵衛の経営となって再び活況を呈する。1881年明治14年)から85年頃まで新たな鉱脈の発見が続き、採鉱事業の近代化もあって足尾銅山は日本最大の鉱山、東アジア一の銅の産地となるのである。年間生産量は数千トンに及び、それは日本の銅産出量の1/4を占めた。当時、銅は日本の主要な輸出品であり、掘削はいけいけどんどんの状態だったのだろう。その守備を忘れた攻撃一方の姿勢の結果がのちに問題を招くことになる。
 1885年頃からの渡良瀬川の鮎の大量死や足尾の山の立枯れについて、「足尾銅山が原因かもしれない」との報道はされるが、いずれも曖昧なもので明確な原因を掴んでのものではなかった。しかしそれは1890年の大洪水で顕著となる。台風等の洪水による被害はその後も続き、1897年には鉱毒被害地の農民が大挙して陳情(当時の表現では押出し)に押しかけ、同時に世論の高まりもあり、同年3月、政府は足尾銅山鉱毒調査委員会の設置を余儀なくされるのである。1900年2月の4回目の押出しは、警察と衝突した農民に多数の逮捕者が出た川俣事件として知られる。


 田中正造は1891年頃からたびたび国会で質問をしていた。正造は1841年12月15日(天保12年11月3日)下野国小中村(現栃木県佐野市小中町)で生まれ、1890年(明治23年)、48歳の時に第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出て当選している。その川俣事件の2日後と4日後に、国会で事件に関する質問を行うが、それが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。

 そして1901年(明治34年)10月に議員を辞職し、鉱毒被害を訴える活動を主とし、東京のキリスト教会などでたびたび演説を行った。その年の12月10日には、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に直訴もした。しかし、1908年(明治41年)谷中村全域が河川地域に指定されると、1911年(明治44年)には、谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が始まるのである。
 1904年(明治37年)7月から谷中に移り住んだ田中正造は、最後まで1人谷中にとどまったが、1913年(大正2年)7月、支援者らへの挨拶まわりに出かけ、運動資金援助を求める旅だったともされるが、その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現佐野市下羽田町)の支援者、庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で死亡する。下野新聞によれば、死因は胃ガンなどであったという。
 死去したときは無一文だった。持ち物は合財袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけだった。


 その足尾の山では今、植樹イベントが行われている。大勢のボランティアが参加しているという。今年の植樹の様子である。


東京新聞TOKYO Web(4/22付け)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120422/CK2012042202000128.html


 以前、今は亡き立松和平のその場での姿がテレビに流れたことがあったが、今でもその意志は受け継がれているようだ。


 銅引きに写るは笑ふ銅の山
 

 その中にあらゆるものを写し出す鏡は、古来より神秘的なものと考えられてきた。「今昔物語」には井戸の中に出世した自分の姿を見る話があり、「南総里見八犬伝」にも伏姫が清水の中に犬の顔となった自分を見る場面がある。地獄の閻魔のもとには、これは過去のことだが、亡者の罪業を写し出す業鏡があるという。白雪姫の物語を思い出すまでもなく、人は鏡に神秘性を見ていたようだ。
 銅引きの鏡に写った山は過去のものではあるまい。立松和平の意志が受け継がれる限り、それは近い将来のものであるに違いない。