蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句21 戒律とともに


 聖武天皇の時代、天皇、皇族の病平癒のために多くの得度が行われ、多くの僧尼が出現した。そのため経典を読めない僧尼もでてきた。また、税の減免があったため一般にも勝手に出家する者が多く、このため朝廷は、得度した僧尼を正式な僧侶にするための受戒制度の確立を迫られることになる。この戒律を授けるには3人の指導者と7人の証明者、いわゆる三師七証が必要とされたが、当時の日本にはこの資格を持つ僧侶が少なく、そこで朝廷は、733年興福寺の僧、普照、栄叡の二人を遣唐使と共に入唐させ、大明寺で戒律を広めていた鑑真に来日を要請する。鑑真は周囲の反対をよそに苦難を越えて来日し、天下の三戒壇といわれた東大寺太宰府観世音寺、下野薬師寺戒壇を設けるのである。
 鑑真の来日は、753年のこの20年後のことであり、その間にも何度かの失敗を重ね、6度目の来日行動の末のものだった。そして物の本によれば、その船に若藻に化けた玉藻が乗っていたのである。


 闇を裂く炎の如し赤八汐