蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(17)


「モデル君の元気も戻ったようだ」
「ええ、そのようですね」
「しかし、あそこで我々の名を呼ぶとは。会場の人より私が驚いた」
「それで思わず立ち上がってしまった?」
「大人げもなくはしゃいでしまった」
「まあ、いいじゃないですか。しかし、彼女は気づいたのでしょうか」
「分かっていたような気がするが」
「乱穂せんせー、秋葉さーん」
 公演の途中、一曲を歌え終えたモデルは突然こう叫んで客席に手を振ったのです。
「また絵を書いて欲しいと言われているのだが、君はどうする」
「そうですねえ」
「思い出してしまうのなら、やめておいたほうがいい」
「そうですね」
「それにしてもあの喜劇役者、私の描いた絵をどうする気だ」
「そのあと連絡はないのですか」
「とんと、さっぱりだ」


 日比谷公会堂を後に、乱穂先生と秋葉君は日比谷通りを歩いていました。モデルの全国ツアーが日比谷公会堂を皮切りに始まったのです。街路樹の銀杏が少し色づき始めた頃でした。
 その通りをスピーカーを高らかに鳴らして選挙の宣伝カーが近づいてきます。
「皆様、この度の選挙に立候補いたしました葉山倫太郎です。葉山倫太郎をよろしくお願いいたします。清廉の人、葉山をどうか国会に送り出してください。葉山倫太郎は皆様のために働きます。葉山、葉山、葉山倫太郎をどうかよろしくお願いいたします」
 官僚だった秋葉君の父、倫太郎は今度の選挙に立候補していました。
「父上は頑張っておられるようだが、秋葉君、君の方は大丈夫なのかい」
「ええ、もう大丈夫です」
「珠子ちゃんもそうだが、鈴子さんも…、可哀そうなことをした」
「…」
 珠子の事件が解決して間もなく、鈴子は自殺していました。珠子を連れて飯坂に戻ってから塞ぎ込むことが多く、元気がなかったといいます。そんな時に起こった珠子の事件が鈴子から生きる意欲を奪ってしまったようです。いつの日か、晴れて親子三人で暮らす日々を夢見ていた鈴子にとって、珠子の死は最早取り返すことのできない過酷な現実そのものだったのです。
「それにしても、非情なお人だ」
「権力が人を惑わせるのです。愚かなことです」
 次第に遠ざかる選挙カーの演説を聞くとはなし聞きながら、二人は黙って地下鉄の駅に向かって行きました、とさ。