蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

他21、「坊や大きくならないで」


 1969年4月、高野悦子高石友也の歌う「坊や大きくならないで」のレコードを買った。そしてそれを聴きながら「ベトナムであの歌をうたっている数多くの女達がいるということを、一体どう考えたらよいのか」と日記に書いた。自殺するほぼ2ヶ月前のことである。

 高石友也の歌は見つけられなかったので森山良子で。久しぶりに聴いたが、それでも強烈な印象で響いてくる。


森山良子「坊や大きくならないで」他
http://youtu.be/sTRaYaPEkcE


 新プラトン主義の思想によれば、「この地上の世界も、何がしかは理想を反映している。つまり理想は現実を否定したところにあるのではなく、現実を延長した先にあるものなのである」という。
 次もまた反戦フォーク。ゆったりとした歌唱は歌詞の通り子守唄風だが、それがより強いメッセージを感じさせるものとなっている。これは「私が選ぶ3曲 15、森昌子 カバーフォーク」でも取り上げた森昌子16歳の歌声である。


森昌子愛する人に歌わせないで」
http://youtu.be/zTv_zauUV7Q
(12.3)


「聖アンナと聖母子」(レオナルド・ダ・ヴィンチ

 そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」。ダ・ヴィンチはこの絵に神の母の運命を描いている。母と子を見る時、それはこの絵ばかりではないが、その縁の不思議さを思う。マリアの母親である聖アンナは娘を膝に乗せ、慈愛の眼差しで二人を見守っている。母の愛は喜びであれ悲しみであれ、その全てを惜しみなく包んでしまうようだ。なんたるものだろう…。そして、「坊や大きくならないで」はマリアの声にはならぬ声であろうが、それは神の母には許されない言葉なのだ。マリアもまた母と同じように慈愛を注ぐ以外にはないのである。
 それにしてもこの奇妙な背景は、モナリザもそうなのだが、どこかに不安を感じさせ不吉を暗示する。それとも長い地球の歴史の単なる一頁であることを示すのか、その中で生きる人間の抗することのできない運命を示すのか、別世界でもあるかのように荒々しく泰然として広がっている。 

 幼児イエスが戯れている仔羊は、儀式の犠牲に使われるもので、それ故、すべての人間に代って十字架につけられるイエスの受難を象徴する。とすると、愛らしい仔羊のまたがろうとするイエスの無邪気な戯れは、じつは十字架上の受難を暗示する悲劇的な意味を帯びたものとなる。それなればこそ、マリアは、わが子をその悲劇的運命から救おうとして、思わずイエスの方に大きく手をさしのばしているのである。つまりここでは聖母は、犠牲の仔羊の中に、わが子の将来の運命をはっきりと読み取っている。彼女の表情からあの神秘的な微笑が消えて、悲しげな諦めだけが読み取れるのも、そのためにほかならない。上体を大きく前に曲げて手を差し出したマリアのドラマティックなポーズは、そのまま神の母としての運命の自覚と、人間的な愛情との激しい葛藤を示すものであると言ってよいであろう。」(「名画を見る眼」高階秀爾岩波新書

それはじんせい…

それはじんせい…