蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(10)


 刈屋蘭堂の甥とはいったい誰なのか。『沈黙』を書いているのはいったい誰なのかと、私はふと考えることがあります。そして、乱穂先生と呼ばれる人物が『私』を名乗り書いているのではと思うのです。屋根裏に籠って小説を書く男は、実は小説だけではなく日記も書き、そして『沈黙』も書いているのか、と。いや待てよ、『沈黙』だけは別人の仕事なのかもしれない。乱穂先生はその別人。それなら蜂太郎日記の筆者は誰だ。やはり秋葉君なのか。それともニコラス…、ジャック…、叔父が書くわけはあるまいし、それ以外の人物だとしたら…、まさかジュディが…。どうにも私には腑に落ちないのです。『私』とはいったい誰なのでしょう?

 私はしばしばこうして回想の世界に運ばれていくことがあるのです。そこは事実と虚構が入り混じった場所で、堂々巡りが必然の迷路の世界でした。崩しては積み、崩してはまた積み直す積木遊びのように、いつまでも同じことが繰り返えされるばかりで終焉を迎えることはありません。結局は元の場所に戻ってしまうのですが、秋葉君が乱穂先生、ニコラス、ジャックそして時としてジュディやモデルに変わるぐらいで、最後はいつも秋葉君だったのです。
 その日、いつものように回想を諦め、目を開けるとそこはワトソン家の居間で、ジュディと弁護士の姿が見えたのです。


「とにかく、ニコラスには手を焼いている。ジュディ、どうにかならないのか。頑な過ぎる」
「ニコラスは納得していないのよ。それでは犯行を認めることになってしまうと考えているのよ」
「しかし、そうは言っても、今のままだったら結局は犯人にされてしまう。取引に応じれば少なくても犯人ではなくなるのに」
「だから、それでは犯人ではなくなっても、犯行を認めたことになると…」
「潔癖過ぎる。塵芥を知らな過ぎる。…ジュディ、君が代わりに言ったらどうだ」
「ええっ、それは駄目よ、ニコラスを傷つけてしまう。しかし、何故、保安官は今更そんなことを持ち出したのかしら。母の知り合いだなんて」
 保安官ワイルドはニコラスに司法取引を持ちかけていました。それは「以前、君の家にお母さんを訪ねて来た人がいるだろう。その人の名前を教えてくれないか。教えてくれれば無条件で即釈放する」というものでした。
「だけど、トム、DNA検査をすればはっきりするんじゃない。何故、警察はそれをしないの」
「そこなんだよジュディ。保安官が言うには、強姦ではなく暴行だったと言うんだ。強姦は新聞の間違いだってね。警察はそんなことは一言も言ってないと。だからDNAを採取できるものは、爪の間からは何も、髪の毛の一本も、勿論犯人の体液も発見できなかったというのさ。どこか恣意的な感じもするけどね…そう言われちゃどうしようもないだろう。
 警察の言うことが本当なら、犯人は相当に用心深い奴で充分に準備もしてたろうし、通りすがりの人間とは思えない。当然警察は性犯罪歴のある人間か、その手の要注意人物を真っ先に調べるべきなのに、そうではなかった。警察は一直線でニコラスのところに来ている。警察のあの日のニコラスの調査は完璧だったよ。罠のような気がする」
「罠?母を訪ねてきた人物が目的てっこと?」
「余りにも不自然すぎて、そうとしか考えられない」
「大勢いる来客の誰の名を期待しているのか知らないけど、その人にも迷惑をかけることになるし…、しかし何のために」
「別の件だと思うが、今はなんとも…」
 暫くの沈黙の後、ジュディがそっと呟きました。
「それにしても何故、ニコラスはあの場所へ行ったのかしら」


 その日、ニコラスは自分で車を運転して勤務先に向かっていました。普段はジュディが送り迎えをしていたのですが、風邪で体調を崩していたジュディが運転を頼んだマリアを置いてきぼりにして、ニコラスは一人で出かけてしまったのです。ニコラスが勤務するガリ宇宙科学研究所はゴールデンゲートブリッジを渡り、サンフランシスコ市街を抜けて更に南に行った小高い丘陵地にありました。この研究所の名前はジュディとニコラス姉弟の母、ガリアワトソンに由来しています。ニコラスはその研究所の天文学の研究員でした。
 そしてその日の夕方、帰宅途中のニコラスは、ゴールデンゲートブリッジを渡った自宅のある右方向ではなく、左方向のポイントボーニータ灯台の少し先、事件のあったミューアウッズの近くで見られていたのです。それを根拠に警察はニコラスを拘留しているのです、とさ。