蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(8)


Mt.Tamalpais

私にはタマルパイス山はこんな風に見えたのです。

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてます」
 奥から大柄な黒人女性が現れました。そしてモデルに近寄り、
「おおっ、まさこ。よく来たわね、まさこ」
 と言って抱き締めます。大きな胸とその胸よりさらに大きなお腹に押し付けられて、モデルは息が詰まりそうでした。それでもマリアが力を緩めることはありませんでした。
「ああ、私の可愛い娘」と頬を寄せてさらに強く抱き締めるのです。
 モデルはマリアに初めて会ったのです。マリアは母性の強い女性のようでした。そして、
「キッドはどこ、私の息子は一緒じゃなかったの」と言います。
「…」
 モデルは苦し気な表情でジュディを振り返ります。
「リーフのことよ」
 ジュディは悪戯っぽい笑みを浮かべてモデルに囁いてから、
「彼女一人よ」と平然としています。
「なぜ一緒に呼ばなかったの」
 マリアは子供のような声でジュディを見つめました。
「彼は忙しいの」
 ジュディの淡々とした言葉に諦めたのか、漸くマリアはモデルを離したのです。秋葉君はマリアからはキッドと呼ばれているようでした。


 マリアはジュディの両親がいた頃からワトソン家に仕える使用人でした。若い頃はスタイのいい美人で、父親の秘書的な仕事もこなしたようです。居間にはその頃の両親と三人で写る写真が置かれていますが、懐かしいタイトスカートの美女は映画スターのようでマリアであると言っても誰も信じようとはしませんでした。両親が亡くなった今は二人の母親のような存在で、ワトソン家にこの三人で暮らしていたのです。
「まさこ、ちょっと来て。話しておくことがあります。マリア、荷物を部屋に運んで置いて頂戴。それと、まさこ、あなた宛の荷物は部屋に置いてありますからね」
 ジュディは居間にモデルを呼びます。マリアは荷物を持って二階へ上がっていきました。
「実は、弟のニコラスのことだけど…」と話しかけ顔を曇らせます。その瞬間にジュディの脳裏には、ニコラスと秋葉君の三人でタマルパイス山に登った時の光景が思い出されていたのです。


 麓には、芸術家たちそれぞれがおもいおもいに建てた家が点在し、道すがら入ることのできるギャラリーもありました。そしてその小さな村を抜け、道はチャパラルの繁みをうねって林の中へと続いています。

 タマルパイス山は先住民の言い伝えによって「眠り姫」と呼ばれていました。空に帰らなくてはならない神が、美しい婚約者を山に変えてしまったのだそうです。その美しい婚約者は、長い髪を東にたゆらせ、恋人の方に顔を向けて眠っているのです。
「姉さん、綺麗な景色だね。僕は初めて登ったよ」
 その日ニコラスは上機嫌でした。
「アイアンマウンテン、ここは君の山かい」
 珍しく冗談も言ったのです。

 普通の男の子であれば、もう何度もこの山には登っていただろうに…。ジュディはそんな弟を見てそう思い、彼の病を恨んだのです。ハーバード開闢以来の頭脳と言われる弟の病を悲しんだのです。サヴァン症候群、それが弟の病気の名前でした。日常生活のすべてを、彼はその記憶と創造に捧げているのです。それが秋葉君の言う「驚異の記憶力と恐るべき創造力」の正体なのです。そしてその病がニコラスを外へ出すことを阻んでいたのです。彼の日常にピクニックはなかったのです。
 セコイアの森は柔らかな光に包まれて広がっていました。眼下にはサンフランシスコ湾がその中にエンジェル島を浮かべて輝いていました。ミソサザイの鳴き声は、遠くに霞むシエラネバダの山々にも届いているようでした。視界に入るものすべてが生き生きと輝いていたのです。その日の幸せをジュディは思い出したのです。しかし、
「…彼は今警察に拘束されています。殺人の容疑で…」と言わなければならなかったのです。
「えっ、けいさつ…」突然のことにモデルは言葉もありません。
「近くで女の子が強姦され、殺されるという事件があって、その容疑です。勿論ニコラスがそんなことをする筈はなく、何かの間違いでしょうけど、警察は強引に弟を連れて行ってしまったのです。全ては弁護士に任せてありますが、そんなわけでニコラスはいないのです」
 ジュディは天を仰ぎます。
「そうだったのですか。何も知りませんでした。秋葉さんには知らせたのですか」
「いいえ、ここはアメリカです。彼に負担をかけたくはありません」
「でも、力になってくれると思いますけど」
「そうね…だから知らせたくないのです」彼には心配のかけどおしなのです、と言いかけましたが口には出しませんでした。


 二人の間に長い沈黙がありました。ジュディはその長いまつげで眼差しを隠しています。薄く口紅の塗られた形の良い唇は固く閉じられたままでした。
「さあ、どうぞ」
 いつの間に用意したのか、マリアが二人の前にカップを置きます。
「大丈夫、すぐに戻ってくるわ。それよりまさこ、サンフランシスコに来たらこれを飲まなければいけませんよ。さあ、どうぞ」

 正確にいえばここはサンフランシスコではありません。サンフランシスコからゴールデンゲートブリッジを渡ったカリフォルニア州マリン郡です。しかしマリアは、サンフランシスコ市民が愛してやまないアイリッシュコーヒーをテーブルに置いてそう言ったのです。
「そうね。くよくよしてもしょうがないわね。さあ、頂きましょう」
 そう言ってジュディは、その理知的な眼差しを伏せたまま、自らを奮い立たせるようなぎこちない微笑を浮かべたのです。誰に向けられたものでもないその微笑は、暗雲に覆われようとする彼女の心を幽かに照らす明かりのようでした。

 しばらくしてから、ジュディはモデルに寄ってその手を取りながら話し始めます。その表情は空港で見た時と同じものでした。
「まさこ、忘れないうちにリーフの思いを伝えておきます。彼はあなたに歌をやめて欲しくないと思っています。だからあなたをここに寄越したのです。悩んでいるようだけど、少し休めばきっと元に戻ってくれるだろうと考えたのです。だからあなたは自分のことだけを考えて頂戴。私たちのことは私たちで何とかします。せっかく来てもらったのに、あなたに余計な面倒をかけたとあっては彼に合わせる顔がありません。彼は優秀な探偵かもしれませんが、かってはハーバードで心理学を学ぶ優秀な学生だったのです。あなたは見抜かれていたのですよ、まさこ」


―ジュディの秋葉さんに対する信頼と深い愛情は感じられましたが、何故、秋葉さんはジュディを恋人だと言わなかったのか気になっていました。そして初めて会った私のことを心配してくれるのも不思議でした。また何故、ジュディはビートルズの歌に涙を見せたのかも気になっていました。しかしそれらを訊くことはできません。いつ式を挙げるのですか、とも訊きにくい状況になっていたのです。日本とアメリカ、遠く離れていることだけがその障害とは思えなかったのです。
 事件を解決すると人と会うのが嫌になると言って、秋葉さんはいま那須の山奥で心を癒しているはずです。その人にこの話を伝えるには躊躇いもあったのですが、しかしニコラスは明智さんの友人であるばかりか恋人の弟です。ジュディが知らせないからといって、私までもが知らせない訳にはいきません。しかもジュディは「もう友達よ」と言ってくれました。友人の余計な世話をきっと許してくれるはずです。―
 その夜、モデルはこう考えて秋葉君に手紙を書くことにしたのですが、秋葉君から届けられた荷物のことはすっかり忘れてしまっていました、とさ。