蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

Edesu35、歌は流れる


パステル、色鉛筆
 

 思い出となれば、みんな美しく見えると良く言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕らによけいな思いをさせないだけなのである。思い出が、僕らを一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。
 上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。(「無常という事」小林秀雄・1942年)

 「無常という事」の冒頭に、次の「一言芳談抄」の一節がが引用されています。

 或伝、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうゝと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうゝとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後生(ごせ)をたすけ給へと申すなり、云々。

  • かんなぎ・・神に仕えて神をまつり、神楽を奏し、また神おろしを行う人
  • 十禅師・・十禅師権現
  • とてもかくても候・・結局は無常でございます
  • 一言芳談抄・・浄土教関係の法語164余条を収録した書物。「徒然草」第98段に5条ほど引用されている。


 無常とは万物一切が生滅変転して常住でないことをいうが、大乗仏教では、世間の衆生が常であることを否定して無常であるとし、仏や涅槃こそが真実の常住であると説いた。この無常観は、仏教の浸透と共に長く培われてきた日本人の美意識の一つなのである。
 私はどちらかと言えば仏説的な意味合いでこの無常をつかったが、小林秀雄は、蒼ざめた思想つまり現代における最大の妄想から逃れるためには、仏説を離れ常なるものを見いださなければならぬとするのだろう。その鍵となるのが動物と人間の境目をなす思い出であると。思い出さなくてはいけないのだろう。人は記憶を辿らなければいけないのだろう。常なるものとは永遠なるものとするなら、無常とは永遠なるものを探すことに他ならないのだと。 無常の愛とは、私流に言えば生滅変転する愛のことだったのだが、小林秀雄に倣えばそれは永遠の愛を探すことになる。しかし常なるものを見失った現代人は、私も含めて、それにさえ気付いてはいないのだ。


カラオケ「愛は流れる」森昌子
http://youtu.be/SsjyZ09I_20
 ご本家の歌はCDでお聴きください。