蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

Edesu34、時は流れる


パステル、色鉛筆

森昌子「十周年記念リサイタル」


 プルーストの『失われた時を求めて』は、有限ではあるがその端には行くことのできない三次元の宇宙を、その端を求めて延々と辿る物語のようである。それはエッシャーの永久に流れ続ける滝のようであり、無限の階段のようでもある。確かに存在した世界と虚構の世界を幾重にも合せ、あたかもその姿で実在するかのように描かれている。しかし「私」は無限回廊の中だ。永遠に巨大建築物を造り続けなければならない。


 冒頭の紅茶に浸したプチット・マドレーヌの場面です。思い出は瞬時に蘇って「私」を回想の回廊へと運んでいきます。 

 人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。
 そして私が、ぼだい樹花を煎じたものにひたして叔母が出してくれたマドレーヌのかけらの味覚だと気づいたとたんに、たちまち、表通に面していてそこに叔母の部屋があった灰色の古い家が、芝居の舞台装置のようにあらわれて、それの背後に、庭に面して、私の両親のために建てられていた、小さな別棟につながった、そしてこの母屋とともに、朝から晩にいたるあらゆる天候のもとにおける町が、昼食までに私がよく送りだされた広場が、私がお使にいった通が、天気のいいときにみんなで足をのばした道筋が、あらわれた。・・・形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが・・・私の一杯の紅茶から出てきたのである。(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家の方へ」プルースト・1913年)

 今は今、昔は昔と人は言う。そう、時は流れるのである。回想の扉をあなたは開けるのだろうか。


独言:11月23日、那須野が原ハーモニーホール、音響効果が良く出来たホールとは聞いていたが、仕事があって行けなかった。できれば高野悦子さんの墓前にも花を供えてきたかったのだが・・・。(提供・蜂太郎本舗)