蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(3)


「本当に忙しない人だけど、あれでなかなの好人物なのです。私は全く頭が上がりませんけども、世間の評判とはずいぶん違う人なのです。あなたも色々聞かされてきたと思いますが、どうでしたか会ってみて、印象が違ったのではありませんか」
 乱穂先生がいなくなると秋葉君はこう話し始めました。
「偏屈者、利己主義者、ゲテモノ趣味、窃視症、等と言われますが、確かに先生はそれを否定しません。覗きについては、自ら屋根裏からいつも覗いていると公言するほどですから、あながち嘘ばかりとも言えないのでしょうけど、だけど人は誰でも、少しずつなのでしょうが、そんな面を持ち合わせているものです。私もそれらが全くないのかと訊かれれば、無いとは答えにくい。先生は人の嫌がることを露骨にして世間の反応を確かめている節がありますから、結果を予測しているのかもしれません。全てにおいて緻密な計算がなされているのです。そうでもなければ、毎回毎回、何人もの人が殺されるような話を続けることはできないだろうと思います。読者の反応をも計算に入れているから、残酷な殺人を考えられるのです。自らの趣味や単なる思いつきだけでそんなことが書かれ、公にされたのではたまったものではありませんからね」
「…」
 彼女は今日初めて秋葉君に会ったのですが、ずっと前からの知り合いのような気がしていました。そしてあのステッキのおじさんも、以前に隣に住んでいたおじさんのように思えてなりませんでした。
「動機付けに関して言えば先生は天才です。よくもこんな動機を思いつくものだと感心させられます。屋根裏の件も、或る時マスコミの方から、著名な作家なのに何故屋根裏に籠って書くのかと訊かれ、こう答えたことがあります。屋根裏の節穴から覗くから、その陰にあるおどろおどろしい世界に入っていけるのであって、重厚な調度品の揃った小奇麗な書斎の窓から覗いても、その陰には元気に遊ぶ子供の姿や花咲き乱れる花壇ぐらいしか想像できない。それでは小説は書けない、と。こんな意味合いだったと思います。
 先生は天才ですけど、それを思えば天才もまた大変ということです。天才とは1パーセントの閃きと99パーセントの努力だとは、エジソンの言葉ですが、天才であるが故の大変さをエジソンは理解していたのでしょう。先生もまたその日々をその99パーセントに費やしているのです」
 秋葉君は顔をそらし、遠くの景色に視線を移しました。

「天才とは1パーセントの直観と99パーセントの徒労であると、エジソンンとは逆のことを言った人もいます。この人もまた天才ですが、ニコラ・テスラという科学者です。エジソンとの間に確執があったため、皮肉を込めて真逆のことを言った訳ですが、よくよく考えれば努力も徒労も大した違いは無いと私は思います。努力の全てが結果に結びつくとは思えませんからね。
 天才とは確かに辛いものかもしれません。あなたが天才と言われていることを私は知っています。今日あなたに会って、実はエジソンやテスラ、そして先生を考え、あなたの苦労を垣間見たような気がして、初めて会ったにもかかわらず、余計なお節介をしてしまいました。私は常に間近に天才を見ていますから、それであなたのことが気になったのかもしれません。それはもしかしたら私が天才ではないから、天才に対する興味だったのかもしれませんが、出過ぎたことをしてしまいました」
「いいえ…すみません。あのう…、私、先生の本、読んだことがありません」
 モデルの眼が潤んでいました。
「いいのです。あの先生の書く小説はあなたが読むべきものではありません」
「いいえ、私、読みます。読んでみたくなりました」
「そうですか…」
 そう言うと秋葉君は暫く沈黙しました。そして視線をモデルに戻して続けます。
「私はエジソンの努力よりもテスラの徒労に真実味を感じます。徒労を失敗に結び付けないことが賢明なのだと思います。無駄と思って無駄をする必要はありませんが、努力が結果として徒労であっても、それは決して無駄ではありません。分かりました。私が差し上げましょう。99パーセントの徒労が努力に変わる時があることを私は信じます。徒労を惜しまず明日を信じましょう。
 あなたがアメリカに着く前に届けておきます。それからアメリカに着いたら、ワトソン君には余り気を遣わなくても構いません。彼もまた天才ですから、ハーバード開闢以来の頭脳と言われた男ですから、少し他の人とは違うところがあります。それでも心配することはありません。彼にはジュディという姉がいます。その彼女があなたの世話をしてくれる筈です。そのように伝えておきますから、静かな時を楽しんで来てください」

 こう言うと秋葉君は珍しく白い歯を見せました。しかしこのジュディが秋葉君のフィアンセであることを、何故か話しませんでしたとさ。


森昌子「三枝さん対談2…三天と森天」
http://youtu.be/IRKSDVUl6rw

愛は流れる

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